遊具で大事故…医者は「もう、指を取るしかないね」 久保竜彦を日本代表まで導いた奇跡【インタビュー】

インタビューに応じた久保竜彦氏【写真:中野香代】
インタビューに応じた久保竜彦氏【写真:中野香代】

「もしあのとき、足の小指を切って手に付けていたらサッカーも難しかった」

 まるでアフリカ人のような、もっと言えばヒョウのような身体能力を、久保竜彦はどうやって培ったのか。その秘密が解明され、育成の体系化ができるのであれば、日本人はもっと世界の舞台で活躍できる。それこそ、ズラタン・イブラヒモビッチやティエリ・アンリのような選手を輩出することも可能だろう。(取材・文=中野和也)

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 だが、それは無理な話だ。野球のイチローやボクシングの井上尚弥は父親の英才教育が結実した例だが、久保の少年時代は福岡の山の中でただただ、走り回っていただけ。「そうか、山で走ればいいのか」と考えるかもしれないが、だったら地方からもっと多くの「久保竜彦」が出てこないとおかしい。

「家の周りには、山がたくさんあったんです。その中に、じいちゃんとばあちゃんがブドウをつくっていた山があったんですけど、そこでじいちゃんの手伝いをしながら走ってた。じいちゃんに『山まで行って、家まで何秒で帰ってくるんや』とか言われて」

 福岡県朝倉郡筑前町。福岡市と久留米市の間に位置する人口約3万人(久保が生まれた頃は約2万人)の町が、久保の故郷である。基本的には筑後平野の中にある町だが、周囲には小さな山が点在していた。

 筑前町の自然のなか、小学生の久保はとにかく自由に遊んだ。クワガタを探しに行ったり、蜂に追いかけられたりしつつ、山で友だちと楽しんでいた。スポーツは野球が好きで、巨人の名二塁手・篠塚和典に憧れていた。

 そんな少年が小学3年生の時、信じがたい事故が起きる。

「友だちと一緒に大きなブランコで遊んでいたんですよ。4、5人くらいが乗れるほどの大きさだったんですけど、鎖を握っていた手が絡まったのか……、とにかくすごい血が出てしまって」

 左手の小指がほとんど千切れ、ブランとぶら下がってしまうほどの大事故。信じがたいほどの激痛。しかし、竜彦少年は泣かなかった。我慢して、母のもとへ。しかし、驚いた母の顔を見た瞬間、「指がぁ!」と絶叫。涙が出た。号泣した。

 少年はすぐ、母親と一緒に病院へと向かった。

「もう、指を取るしかないね。でも手の指がないのは不便だから、足の小指を切ってつけよう。たぶん、くっつくから」

 医者の言葉に、母親が激怒する。

「何をいっとるんね。絶対につなげて」

 母親の剣幕におされ、医師はちぎれかけた左手小指の修復にトライ。縫合がうまくいってなんとかつながりはしたが、指が短くなってしまった。

 足以外は全て右利きである久保にとって、左手はグローブをはめる手でもある。そして小指はキャッチングにおいて重要な役割を果たす。その指が短くなってしまったことでキャッチがうまくいかなくなり、野球を続けることは難しくなった。

 落ち込む少年。が、「サッカーなら手は関係ないやろ」とも考えた。小学4年のとき、彼はサッカー少年団に入る。

「考えてみれば、もしあのとき、足の小指を切って手に付けていたら、サッカーも難しくなる。母ちゃんが『ヤブ医者や』って言っていたけど、本当にそうでした(笑)。でも、くっつけてくれたから」

 ガラスサッシ職人の父(故人)は、お酒が好きな頑固な男。とにかく真面目で、対応も丁寧だったが、会社と喧嘩して辞めて独立するなど、気骨のある人物だった。母は水泳で県の中学記録をもっていたほどのスポーツウーマンで「じゃじゃ馬でしたね」と久保は言う。

 決して裕福だったわけではない。父からは「お前は尻が小さくて骨も細いから、スポーツで成功するのは無理」と言われ続けた。母も決して竜彦を甘やかせはしない。だが父はキャッチボールの相手をしてくれるなど、優しい一面もあった。母は強い言葉で息子の身体を守ってくれた。そして何より、この両親のもとで自由に、自然のなかで好きなように遊ばせてもらったことによって、久保の野性は磨かれていった。

 筑前町立三輪中に進学したのは1989年。小学校時代からの友人である大場啓(後に徳島でプレー)とともにサッカー部に入るはずだった。だが大場は、サッカー部の顧問がサッカー経験のない美術の先生だったこともあり、「ここではサッカーはできん」と考えて陸上部に入った。陸上競技では福岡県でも有名な先生が指導していたことも、彼にとっては魅力だった。

 久保はサッカーを続けた。自分たちで練習メニューを組み、好き勝手にサッカーをやっていたという。教師の言うことも聞かず、練習試合ではよく喧嘩にもなった。やんちゃばかりをしていた少年を見て、先生たちは心配する。

「サッカーをやらんかったら、どうにもならん。高校も、いいサッカーの指導者がいる高校に、なんとか入れてもらおう」

 バレー部の顧問を務めていた岡部先生をはじめとする三輪中の先生方は、サッカー部の父兄ともいろいろと相談し、久保の進学先について相談を重ねた。久保をはじめ三輪中の選手たちは福岡県のトレセンにも選出されたこともない、全くの無名。しかし先生方は、「久保にはサッカーしかない」と高校でも続けられるように尽力した。

 そういうなかで筑陽学園高の吉浦茂和監督という名前が、先生や父兄たちの耳に入った。日本サッカーリーグ(JSL)でプレー経験もあり、1983年には日本B代表にも選出、フジタ工業(現湘南)でプレーしJSL優勝を果たしたこともある。

 彼は1988年から筑陽学園高の監督に就任。後にジュビロ磐田やセレッソ大阪、アビスパ福岡で活躍し、J1で223試合、J2を合わせると401試合出場を果たす久藤清一も、吉浦監督のもとで育っている。適切な指導で選手の個性を伸ばし、チームも成長させていた新進気鋭の監督だ。

 三輪中の先生たちは、久保をはじめ5人の生徒を推薦。そのなかには陸上部の大場も、混じっていた。吉浦監督との面談時、岡部先生はバナナを背負って手土産がわりに渡し、「何とか、お願いいたします」と頭を下げた。誠意をもって子供たちの未来を心配する岡部先生の情熱にうたれたのか、「5人とも面倒をみましょう」と吉浦監督は言ってくれた。

「ありがとうございます。ただ、家庭が決して裕福ではない子供たちが2、3人くらい、いるんですけど」

 その中に、久保もいた。

「わかりました。特別推薦の枠が3人ほどあるから、それを使いましょう」

 この話し合いの結果、久保は学費免除での進学を許されたのだ。

「岡部先生には、いつも本当に怒られていた。でも、この話を後で吉浦先生に聞いたんです。『あの人は、本当にいい先生だぞ』と教えてくれた。それは、本当にそう思います」

 久保竜彦は、決して真面目でいい子ではなかった。だが不思議と、周囲に「いい大人」がいてくれた。そういう意味では、とても恵まれた少年時代を過ごしていたと言える。進学した筑陽学園高でも、そしてサンフレッチェ広島でも、彼はいい大人たちに囲まれ、山で鍛えた野性の感覚を失うことなく、成長していったのだ。

(中野和也 / Kazuya Nakano)



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