表情にあどけなさ…J3デビュー戦で“険しい表情” カメラ捉えた15歳5か月の久保建英【秘蔵】

【カメラマンの目】2016年11月5日、15歳5か月と1日でJリーグデビューした
1993年のJリーグの誕生から、日本サッカーは上昇カーブを描くようにレベルアップを遂げてきた。近年ではジャパンブランドの選手が世界各地へと進出し、ヨーロッパのトップシーンでも活躍を見せている。(文=徳原隆元)
【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!
転じて国内リーグに目を向ければ、10代でその存在が注目されるプレーヤーの出現が増え、試合に華を添えている。そうしたオーセンティックな才能を持ち、若くしてJリーグの舞台に登場した選手の代表格は誰になるのかと考えると、それはやはり久保建英になるだろう。
2016年11月5日、久保はまだ表情にあどけなさが残る15歳5か月と1日でJリーグデビューを果たしている。非凡な才能を秘めた青年への期待は、果てしなく高かった。
しかし、実際はそうした期待とは裏腹に、久保はデビュー戦をこれといったインパクトを残せずに終えている。不完全燃焼に終わった現実は、試合後に久保自身が見せた険しい表情からも察することができた。
低調な内容となってしまった理由は、このとき久保がプレーしたカテゴリーやチーム構成が影響していたと考えられる。久保がJ初出場を果たした舞台は14年に創設されたばかりのJ3リーグで、チームは若い選手たちによって編成されたFC東京U-23だった。
FC東京U-23はその名通り、若い選手たちで構成されたチームで、彼らには経験の浅さから、自分のプレーをするだけで精一杯という印象を受けた。年齢がもっとも若い久保に対して、プレーをし易いようにサポートする余裕を周囲の誰もが持ち合わせていなかった。
さらに決定打となったのが、相手がフィジカルを武器に勝負を挑んできたことだ。そうした敵を前にして、15歳の久保の体格的ハンデは如何ともしがたく、味方との連携も不十分となれば力を発揮するのは難しくなる。そして、久保はこの試合から重ねていく日本でのシーズンで、なかなか本領を発揮できない日々を過ごすことになるのだった。
ほとばしる才能を秘めた久保には、未来の日本のエースとしての姿を思い描いてしまい、期待度はどうしても高くなってしまう。ただ、当時の彼の年齢を考えれば、プロの壁に成長への行く手を阻まれても、それは無理もないことだった。
しかし、久保はそうした苦境に押し潰されて終わるような、やわな選手ではなかった。この若くして世界のサッカーを知悉(ちしつ)した青年は、難局を乗り越える技術と精神力をやはり持ち合わせていた。
手詰まりの状況から活路を見出そうと、所属チームを横浜F・マリノスへと変えるなど、積極的にモーションを起こしてJへの対応力を高めていく。結果、FC東京に復帰した2019年には、シーズン途中でスペインへと戦いの場を移すまで、中心選手として存在感を発揮することになる。
その後のスペインと日本代表での活躍は説明するまでもないが、世界のトップシーンを目指して奮闘する久保が紡いでいくサッカー人生において、Jの初舞台の試練は成長へとつながる貴重な経験であったのではないだろうか。
徳原隆元
とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。