「アフリカに振り切った」サッカー人生 縁が縁を呼び3か国でプロ…“数奇な”キャリアの哲学【インタビュー】

モロッコ2部スタッド・マロカンの森下仁道。10月8日には公式戦初ゴールを記録【写真:本人提供】
モロッコ2部スタッド・マロカンの森下仁道。10月8日には公式戦初ゴールを記録【写真:本人提供】

【海外組アウトサイダー】スタッド・マロカン(モロッコ2部)所属・森下仁道

 現在では欧州1部リーグを中心に数多くの日本人が活躍し、日本サッカーの進化を印象づけている。かたや、海外のほかの地域にも目を向ければ独自の道を切り拓いた日本人プレーヤーの姿が。FOOTBALL ZONEでは「海外組アウトサイダー」としてそんな選手にフォーカス。今回はガーナとモロッコで日本人初のプロサッカー選手となったFW森下仁道にこれまでの競技人生を訊いた。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・山内亮治/全2回の1回目)

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 2023年8月、日本に一時帰国しトレーニング中だったFW森下仁道を悲劇が襲った。左膝の前十字靭帯断裂。ガーナで本格的にプロサッカー選手としてのキャリアを歩み始め、数年にわたる水面下での準備を経てモロッコのクラブに移籍が決まろうかという矢先だった。

 怪我をクラブに伝えると、移籍は白紙に。2025年のクラブワールドカップにアフリカ代表として出場する。壮大な目標を掲げた異国での挑戦はこんなところで終わってしまうのか……。心は完全に折れかけた。

 失意のなか、手術を終えたばかりの森下に1本の電話が。日本の大手商社に勤めるという男性から、唐突にこんな提案を持ちかけられた。

「弊社が森下さんの所属しようとしているチームのスポンサーになったら、それって何かの助けになりますか?」

 出身大学で同じ学部のOBだった。年齢が随分離れ接点はなかったが、新聞報道で森下のことを知っており、以前から「後輩が頑張っているのならいつか力になりたい」と思っていたという。勤務先の支店がモロッコにあるという偶然まで重なっていた。

 話をクラブに伝えると、「モロッコに戻ってきたら改めて交渉しよう」と移籍話は破談から一転した。結果的に約1年後の今年7月24日、別のチームであるモロッコ2部スタッド・マロカンへの移籍が決まり同国初の日本人プロサッカー選手となるが、苦しい状況でもリハビリや移籍の調整を続けられた心境をこう語る。

「首の皮一枚つながった状態になったので、『まだチャンスはゼロじゃない』という思いでリハビリに打ち込むことができたんです。そうしたご縁も僕を支えてくれたモチベーションでした」

 森下は自身のサッカー人生を振り返る時、「ご縁がご縁を呼んで」としきりに語る。このエピソードもその1つでしかない。

競技人生における大きな転機となったインドネシアでのサッカー留学【写真:本人提供】
競技人生における大きな転機となったインドネシアでのサッカー留学【写真:本人提供】

高校時代にインドネシアへのサッカー留学で実感「生きていけるな」

 森下がサッカーを始めたのは5歳、父親の仕事で引っ越した先のオランダでだった。現地で当時フェイエノールトに所属していた小野伸二さんのプレーに魅了された少年は、漠然とプロ選手への夢を抱き、小学3年で地元・岡山県倉敷市に戻ってからも強豪クラブでプレーを続けるなど競技に打ち込んだ。

 中学に進学すると、プロ入りに向け筑波大学でプレーするという目標ができた。推薦入試の選択肢もあったが、一般入試を見据えて高校は進学校を選択した。ただ、進学先のサッカー部は県大会に出場できるかどうかの競技力。プロの夢を考えると、物足りない環境だった。強豪校に進んだ中学時代の仲間から「お前たちはいいじゃん、勉強ができるんだから」と言われると複雑な心境になったという。当時をこう振り返る。

「本来サッカーで勝負したいのにできていない。まるで逃げているかのような思いに苛まれ、劣等感を抱きました。だからこそ、より自分に厳しくあろうと思いましたし、そのための指標を自分の中に持ってサッカーに取り組まないと周囲に置いていかれるという危機感も持っていましたね」

 と、ここで大きな決断を下す。父親の赴任先だったインドネシアへのサッカー留学。1年休学することで切磋琢磨した仲間と一緒に卒業できない心苦しさや、大学進学への影響も懸念されたが強い思いで踏み切った。

 現地に渡ると勉学に励む傍ら、サッカーに打ち込むための環境づくりにゼロから取り組んだ。すると、草サッカーで出会ったインドネシア代表歴のあるプロ選手の紹介で、現地クラブでの練習参加が実現。ここがきっかけとなり、インターナショナルスクールの選手として東南アジアサッカー大会への出場が叶い、準優勝の結果を手にしたことで大会最優秀選手やジャカルタ選抜にも選ばれた。

 この成功体験は、のちの森下に大きな影響を与える。

「サッカー選手としての実力を高められただけでなく、人との縁を手繰り寄せられたこの経験は『(異国でも)生きていけるな』という思いを自分の中で強くしてくれました」

大学卒業後はガーナでプロに。背景に挑戦を後押しした家族の思いがあった【写真:本人提供】
大学卒業後はガーナでプロに。背景に挑戦を後押しした家族の思いがあった【写真:本人提供】

サッカーの意味が変わった瞬間

 その後、念願だった筑波大学への入学を果たし蹴球部に所属できたが、プロ入りへの壁は高かった。部内にチームは7軍まであり、大学4年間で2軍までは上り詰めたものの、Jリーグクラブからのオファーは来ず。3年次にJFLのチームから話をもらったが断った。

 卒業まで残された時間が少なくなりトライアウト参加が視野に入るも、「自分と同じようなレベルの選手は腐るほどいる」との思いが頭をよぎった。そこで、最終学年になるまでの1年を使い“目立つ肩書”作りをすることに。日本人選手が少ないアフリカで挑戦し箔をつけようと考えた。

 ここから持ち前の行動力を発揮する。副学長がザンビアで開かれるスポーツの国際学会に出席すると聞くと、「どうしても行きたい」と同行を懇願。学会への参加が叶うと、自分のプレー映像が見られる二次元コード付きの名刺を100枚以上も配った。すると、ザンビアのサッカー関係者とのコネクションができた。

 さらに、現地渡航後もサッカー選手の給料だけでは生活が難しいと考え、官民協働の留学プログラム「トビタテ!留学JAPAN」に応募。留学計画が採用され返済不要の奨学金を手にできたことで、大学を1年休学しザンビアへ。現地ではプロクラブの「FCムザ」との契約が上手くまとまり、8か月ほどプレーした。

 またこの時、かつて横浜F・マリノスなどで活躍した中町公祐さんとの出会いも果たす。「プロとしてのいろはを教えてくれた」恩人との縁がきっかけで、帰国後はJリーグの2クラブでの練習参加に漕ぎつけ、うち1つとはシーズン前のキャンプに呼ばれるなど加入に向けた調整がうまく進んでいた。

 しかし、小さい頃からの憧れだったプロまであと少しというタイミングで実姉の急逝という悲劇に見舞われる。自分が今こそ寄り添わなければ――。サッカーを辞めるつもりで故郷に戻り家族に意思を伝えたが、返ってきたのは「あなたが過酷なアフリカで頑張っている姿からエネルギーをもらっていたよ」の一言。森下はここで、「アフリカに振り切ったサッカー選手にならないとな」と決意を固めた。さらに、心境の変化をこう続ける。

「サッカーはもちろん自分のためにしています。けれども、この出来事からは特に、家族など『応援してくれる人のために』という思いがプレーへの原動力として自分の中でとても強くなりました」

 そんな思いを後押しするかのように、卒業を控えた2020年の冬、森下のもとへガーナからオファーが。のちに同国初の日本人プロサッカー選手誕生へとつながるこの話も、留学中に築いたコネクションがきっかけだった。

「人生は人と人のつながりで成り立つことばかり」

 縁に恵まれ、運を味方につけてきた印象の強い森下のサッカー人生。普通に生きているだけで果たしてこうなるものか……。大事にしてきたことを問うと、「準備」「一生懸命」「感謝」という3つのキーワードを挙げた。

「自分が実現したいことへの準備は人一倍気をつけてきました。というのも、(大学で後輩の)三笘薫と比べた時に僕はそこまで上手くないわけですから、思いの実現には“弱者の戦略”が必要になると思うんです。チャンスが訪れた時に掴み切れるかは、いかに準備をしてきたかにかかっています。

 また、他力本願に聞こえるかもしれませんが、一生懸命やっていれば必ず誰かが助けてくれる。手を差し伸べてくれた人にちゃんと感謝をして、将来的に恩返しができればいいなという思いでここまでやってきましたね」

 加えて、部活動でもキャリア形成における重要なことを学んだと話す。

「中高で『身の回りを綺麗にできないチームは弱い』なんて礼節に関わるようなことを言われて、最初はサッカーと関係ないじゃんと思っていました。とはいえ、サッカーでもサッカー以外の分野でも、人生は人と人のつながりで成り立つことばかり。なので、人としての基本をしっかりできてこそ他者から信頼を得られ、この人を応援しようという思いにつながっていくんだと思います」

 プロを目指す現役世代へのエールであり、今後のキャリアへ気持ちを新たにするべく自らに語りかけた言葉のようにも聞こえた。

[プロフィール]
森下仁道(もりした・じんどう)/1995年8月25日生まれ、岡山県倉敷市出身。ポジションはFW。5歳の頃に引っ越し先のオランダでサッカーを始め、小学3年で日本帰国後はJFE倉敷FC(現ピナクル倉敷FC)、「ハジャスFC」と地元の強豪でプレーした。高校ではインドネシアでのサッカー留学を経験。筑波大学進学後は蹴球部に所属。3年次にアフリカ・ザンビアに留学し、「FCムザ」でプロデビューを果たす。卒業後にガーナのクラブ「エブサ・ドゥワーフスFC」に加入し、国内移籍を経て2024年7月24日にモロッコ2部「スダッド・マロカン」と契約。ガーナとモロッコの2カ国で初の日本人プロサッカー選手になった。

(FOOTBALL ZONE編集部・山内亮治 / Ryoji Yamauchi)



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