元日本代表に減俸→退団も…「準備してくれ」 J強豪の危機、異例復帰を即決「僕は諦めない」【コラム】
名古屋の苦境に立ち上がった闘将、無所属から異例のドタバタ復帰へ
いまだに、この試合を超える緊張感を取材者として感じたことがない。
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2016年9月10日、J1リーグ第2ステージ11節アルビレックス新潟対名古屋グランパスの一戦は川又堅碁の先制点を守り抜いた名古屋が実に、リーグ19試合ぶりの勝利を得た試合だった。当時も今もビッグスワンは名古屋にとっての鬼門の1つで、結果的にこの年にJ2降格となったチームはその年の5月から勝利がなく、クラブワースト記録の18戦勝ちなしという危機的状況に陥っていた。
最後まで小倉隆史GM兼監督を諦めなかったクラブはかつてドラガン・ストイコビッチ監督の右腕として活躍したボスコ・ジュロブスキー氏をまずはアシスタントコーチとして招聘し、その後小倉GM兼監督の休養を機に監督へと権限を移行。その最初の記者会見の場で新監督は、忘れてはいけない、といった感じでこう語ったのだ。
「それと、1つ言っておきたいことがあります。重要な情報です。闘莉王が名古屋に戻ってきます」
2015シーズン終了後、クラブ側から提示された大幅減俸での契約を撥ねつけ、名古屋を退団。このシーズンの体制においては半ば戦力外となっていた田中マルクス闘莉王が、9か月ぶりにチームに復帰するというのだ。移籍ウインドーはもちろん開いていないが、何かに備えていたかのように闘莉王は母国ブラジルで無所属のまま、自身が経営する牧場の主として個人的にトレーニングを続けてきていた。
名古屋の練習場がある広大なトヨタスポーツセンターの何倍もの大きさがある牧場で、「牛を集めるのには馬を使うけど、それを自分が走り回ってやったり、大量の餌を馬を使わず運んだり。柵を作るにも機械を使わず手作業でやったり」とナチュラルな筋力トレーニングで体力を維持していた。
だがオファー自体は急も急で、8月26日金曜日の来日のために水曜日の便に飛び乗ったのだが、「準備してくれ」という連絡が来たのは月曜日のこと。「あまりにも急すぎて、家族となかなか会話をするのも怖くて。でも『ブラジルのほうではみんな元気で、日本ではみんな苦しんでいるからあっちに行きます』と言ってここに来た」と漢気あふれる行動に出た。当時は奥さんが第一子を妊娠中で、来日2日後の会見の場でも「まだ説得できていない」と困り顔を浮かべるような状態だった。
あの闘莉王がヘディングを空振り、公式戦に向け急ピッチで調整
ドタバタの一言では済まない名古屋への復帰劇は、ここから闘莉王という選手の凄みを感じさせる日々へと変わっていく。8月26日にやってきたその翌日にFC東京とのリーグ戦があり、その後は天皇杯のためリーグは一時中断。選手登録ができる次節の新潟戦までの2週間で、闘将はプロの公式戦に耐え得る身体づくりをしていくことになった。
前述のナチュラルなトレーニングで一定のコンディションは保っていたものの、試合の強度や負荷はまた別次元のものがある。何より試合勘の部分では前シーズン終了からのブランクがあり、コンディション含め“どこまでフォームを取り戻せるか”というのが監督、スタッフ、もちろん本人に課せられたミッションだった。
一番怖いのは怪我で、どんなに軽傷でも一度躓いてしまえばシーズン終了の恐れと隣り合わせ。じっくりと、しかし急ピッチでという矛盾への挑戦は、しかし取材する側としてはとても興味深いものがあったのも確かだ。
闘莉王は1日ごとに“急成長”を遂げていった。来日したその足でクラブハウスに立ち寄り、メディカルチェックの合間を縫って軽くボールを蹴ると、翌々日のトレーニングから部分的に参加。来てすぐに公式戦があったことでチームのスケジュールがサブ組の練習と主力のリカバリーから始まったことも幸いした。
さらにクラブは集中的な練習環境をと9月1日から2泊3日のミニキャンプを豊田スタジアムを貸し切って行ない、新たなチームメイトたちへの順化も促した。個人的にはこの3日間で見た闘莉王の姿が目に焼き付いている。1日目、全体練習後に1人クロス処理のトレーニングを行なった闘莉王は、相手もいない1人ぼっちのゴール前でヘディングを空振りした。
前年、セットプレーのトレーニングで自分の守備範囲のボールはすべて「俺だー!!」と声を出すだけで素通りしていたことはあったが、それは実戦では絶対に跳ね返せるという自信の表れ。翻ってこの時はジャンプ力、タイミングの取り方、ボールに対する視野や感覚などすべてが鈍っていたからこその空振りと言えた。あとにも先にも、闘莉王がヘディングを空振りするなんて見たことがない。逆の意味でこれは、とても貴重な瞬間だったと自慢したくなるワンシーンだった。
ただし闘莉王が凄いのは、翌日には空振りが当たるようになり、その翌日にはクリアに……というように、すさまじいスピードで勘を取り戻していったことだった。9月6日には「タイミングは合ってきたね」と居残り練習で強烈なヘディングシュートを連発。“現場復帰”から1週間たらずで練習での存在感も大きく膨れ上がり、チームメイトからも「トゥさんは凄い」「影響が大きい」と称賛の嵐だった。
「やりすぎない、やらなすぎないの難しいバランスでやっている」というギリギリの調整法はあとにしわ寄せもあるのだが、まずは復帰1戦目となる新潟戦への準備は順調で、名古屋U-18との練習試合でさらなる実戦勘を養い、9か月ぶりの選手復帰、来日2週間での調整を経て見事、ビッグスワンのピッチにスタメンとして立つのだった。
勝利のあと、盟友・楢﨑正剛は「“彼”のおかげです」と言い、永井謙佑は「トゥさん凄いです。相手のシュートが身体に当たる」とその存在感を絶賛した。この試合のラストプレーとなったのは自陣ゴール前の混戦のなか、浮き球を闘莉王が胸トラップで楢﨑にキャッチさせるという驚愕の選択だった。「そういやこういうことするヤツだった」と楢﨑すら驚かせたプレーは、闘莉王という選手のスケール感を表す場面として今なお色褪せない。
絶望的な状況から希望を見せてくれた“スーパーマン”
実は最近、この一戦について新たな事実を知った。闘莉王はこの後、10月1日のアビスパ福岡戦(5-0)を前に腸腰筋付近を痛め、右足でまともに蹴れない状態にもなるのだが、新潟戦の時点でもかなり“危なかった”というのだ。楢﨑は「闘莉王の状態も万全ではない」と試合後に語っており、もちろん周囲の見方としてもこの時の闘莉王が本来のプレーをしているとは思っていなかった。それよりも問題は試合後で、この日の殊勲である川又は当時の記憶を引っ張り出し、衝撃の事実を教えてくれた。
「覚えているのは、トゥさんが試合終わったあとに、体調が悪くなってたこと。バスの中で。もうエグいぐらいに汗をかいてましたよ。やりきった、もうすべて出し切ったみたいな状態になっていた。トゥさん、あれが久々の試合だったじゃないですか。何か月も試合をやってなくて。凄えっすよ、それにビビりました。あの試合ではそれが一番やばかったのかもしれない。ブラジルから呼ばれて、すぐに試合して、チームを勝たせて。最強すぎでしょ。マジで命懸けてやってくれてるなって思いましたよね」
風の噂では、降格が決まった湘南ベルマーレとの最終戦の時点で闘莉王は肉離れを負っていたとも聞く。その真偽は確かめられていないが、試合中に自分よりもかなり小柄な山田直輝に吹っ飛ばされたシーンがあったことは強く記憶に残っており、とても納得のいく噂ではあった。
「苦しんでいる仲間たちを見ていられなかった。何かしてあげたい、嫌な思いをさせたくない。ただそういう気持ちだけで、何かできるはずと思って帰ってきた」。新潟戦までの2週間、そしてシーズン終了までの約2か月間は名古屋を取材してきた中でも特に濃い、そして疾走感のある時間だった。そして闘莉王という“漢”の真の強さに触れたことは、今でも貴重な体験として折に触れ思い出す。
「社長や監督と電話で話した時にまったく細かい話をしなかった。契約のところも一切聞かずに来た」。2016年シーズン終了後、ブラジルに帰る闘莉王がクラブハウスから持ち出したのは段ボール箱1つか2つ。本当に着の身着のままで名古屋を助けるためにやってきたのだと胸が熱くなった。
加入会見などやってる場合なのかなと躊躇しながら行なったその壇上で、彼は言った。
「闘莉王はスーパーマンじゃない。でも間違いなく可能性がある限り僕は一瞬でも諦めないし、必ず名古屋グランパスを最後の最後まで戦わせる、それは絶対にやる。みんなで力を合わせて少しでも上に、少しでもサポーターのために全力を全員に出させることは必ずやる」
元日本代表の闘将が2016年に名古屋へ在籍したのはわずか2か月余り。戦力外から異例の電撃復帰を果たしたものの、チームはクラブ史上初のJ2降格の憂き目に。だが絶望的な状況から希望を見せてくれた闘莉王は間違いなく“スーパーマン”だった。
(今井雄一朗 / Yuichiro Imai)
今井雄一朗
いまい・ゆういちろう/1979年生まれ。雑誌社勤務ののち、2015年よりフリーランスに。Jリーグの名古屋グランパスや愛知を中心とした東海地方のサッカー取材をライフワークとする。現在はタグマ!にて『赤鯱新報』(名古屋グランパス応援メディア)を運営し、”現場発”の情報を元にしたコンテンツを届けている。