個人昇格→J1で再会した中学時代の“同期” 激闘の川崎×磐田で起きていた「1つのドラマ」【コラム】

J1の舞台で再会を果たした平川怜(左)と三浦颯太【写真:徳原隆元 & GettyImages】
J1の舞台で再会を果たした平川怜(左)と三浦颯太【写真:徳原隆元 & GettyImages】

三浦颯太と平川怜はFC東京U-15むさし時代の同期

 2023年天皇杯王者・川崎フロンターレにJ1昇格組のジュビロ磐田が挑んだ3月1日のJ1リーグ第2節のナイトマッチ。ご存知の通り、試合は派手な打ち合いとなり、結果的に磐田がジャーメイン良の4発などで5-4と勝ち切った。

「こういう試合を通してしか成長はできないので、とにかく1つ、チームとして勝てたのは大きな自信ですし、こういう厳しい試合をシーズンの中で戦っていかなければいけないので。この自信を糧にして進んでいきたい」と百戦錬磨の守護神・川島永嗣も力を込めていたが、どういう形であろうと磐田にとって大きな1勝であることは変わりないはずだ。

 まさにドラマチックなゲームの中で、1つ注目すべき点だったのが、川崎の左サイドバック(SB)三浦颯太と磐田の左MF平川怜だ。

 同じ2000年生まれの2人はFC東京U-15むさしの同期で親友。ポジションも同じボランチだった。それから9年が経過した今年、三浦がヴァンフォーレ甲府から、平川がロアッソ熊本からそれぞれ個人昇格してきたことで、ようやくJ1の大舞台で顔を合わせるチャンスに恵まれたのである。

「僕自身、素直に嬉しいですね」と三浦が言えば、平川も「中学生の頃から応援してくれる人は嬉しかったと思いますし、僕自身も感慨深い戦いでした」と嬉しそうに言う。それぞれに紆余曲折のキャリアを歩んできたからこそ、この日の再会に特別な思い入れがあったに違いない。

 彼らがFC東京U-15にいた頃を振り返ると、平川は屈指のテクニシャンとして知られ、1つ下の久保建英(レアル・ソシエダ)とともに将来を嘱望される存在だった。U-15日本代表の頃から森山佳郎監督(現仙台)にコアメンバーとして位置づけられ、菅原由勢(AZアルクマール)や中村敬斗(スタッド・ランス)らとともに世界を転戦。インドで開催された2017年U-17ワールドカップ(W杯)も参戦している。

「怜は本当に最初にお手本にした選手。チームメイトでしたけど、1人違った。建英もいましたけど、怜の方が断然上手いとイメージはありました。U-15日本代表の頃からずっと日の丸を背負っていたし、僕にとっては雲の上の存在でした」と三浦はしみじみと語る。

 同じボランチではあったが、「僕は試合に出ていなかったので、怜とコンビを組むことがほとんどなかったですね」も苦い過去を明かす。結局、ユースに上がれず、帝京高校へ進み、高卒ではプロになれず、日本体育大学へ進学。大学1年の時に左SBにコンバートされ、ようやくJリーグのスカウトの目に留まるようになった。「同じ世代の怜とか由勢は10代の頃、トップ・トップでやっていたので、自分が目標にできないぐらい離れていましたね」と三浦は雑草魂で這い上がろうとしていた数年前を改めて振り返っていた。

 一方の平川の方はFC東京U-18に昇格し、17歳だった2017年11月はプロ契約。すぐさまサガン鳥栖戦でJ1デビューを飾るなど、華々しい歩みを見せていた。しかしながら、そこから試合に出られない日々を強いられ、2019年にはJ2鹿児島ユナイテッドFC、2021年には同・松本山雅FCへレンタル移籍。松本では名波浩監督(現日本代表コーチ)に重用され、ボランチで試合に出ていたが、球際の弱さやフィジカル的強度の物足りなさを露呈。チームのJ3降格という最悪の現実を突きつけられることになってしまった。

 そして2022年には熊本に3度目のレンタルへ赴き、そこで自身の能力を高く買ってくれる大木武監督と出会う。「平川みたいないい選手を使いこなせない指導者は信じられない」とまで話していた名将の下で、平川はボランチから1つポジションを上げて、主にトップ下の位置を主戦場にしたことで一気にブレイク。熊本をJ1昇格プレーオフ初参戦の原動力となった。

 そして2023年。三浦がJ2甲府入りし、平川も熊本に残留。キャプテンとしてチームを引っ張る重責を担って戦った。彼らはJ2という舞台で初めて共闘。平川もJ2ベストイレブンに選ばれるほどのインパクトを残したが、先に一歩抜け出したのは三浦の方。貴重な左利きの推進力ある左SBとしてシーズン途中から頭角を現し、AFCチャンピオンズリーグで活躍。昨年12月には日本代表初招集を受け、今年元日のタイ戦で初キャップを飾ったのである。

久保と切磋琢磨してきた平川が目指すべき理想像

「(颯太の代表入りを聞いて)驚きましたし、『J2で選ばれるんだ』と思いましたけど、持っているポテンシャルを考えれば選ばれて当然だなと感じました。左SBとしてスペシャルなものを持っていると思いますし、存在感を示しているので」と平川は盟友の急成長を素直に認めつつ、「自分も早く(代表に)行きたい」と新たな野心が生まれたという。大人しい印象の強かった平川が熊本でキャプテンマークを巻き、フル稼働したことで、心身両面で大きく変化したことを如実に示す発言だった。

 こうした苦労を経て、ともに個人昇格して迎えた川崎対磐田。平川は本職のトップ下ではなく左MFでプレー。2点目の起点となる左サイドの崩しに絡み、彼らしい創造性とテクニック、落ち着きを印象付けた。かたや三浦の方もマルシーニョが奪った3点目につながった精度の高いクロスでインパクトを残した。

 平川が後半18分に退き、三浦も守備面で少し軽さが見られるなど課題も少なくなかったが、ここが本当のスタート。

「今、こうして2人が同じステージにいるっていうのは、これまでの苦労と努力が報われたから。そこは自信を持っていい。でもまだ満足せず、お互いにもう1個、もう2個ぐらい上げていければいいと思います」と三浦も語気を強めていたが、J1初対戦を機に2人が揃って成長曲線を引き上げ、いつか日本代表の舞台で共闘できるように、前進を続けていくべきである。

 そのためにも、三浦はやはり守備強度や1対1のマッチアップの能力を引き上げることがマスト。それが代表定着への絶対条件と言っていい。本人もそのあたりはタイ戦に参戦したことでより高い意識を持っているという。

 平川も攻撃の存在感をより強く示していかなければならないだろう。左MFといっても三笘薫(ブライトン)のようなドリブラーではないから、立ち位置やアイデア、ゲームメイクへの関与など幅広い形で勝負していくべき。家長昭博(川崎)のようなスタイルが理想像に近そうだ。

「家長選手は間合いの取り方や余裕がすごかった。僕自身、ゴール・アシストっていうのは早く取らないといけないし、そこにまで持っていく形も増やさないといけない」とやるべきことを明確にしていた。

 回り道してきた選手が輝けば、より多くの人々に勇気を与えられる。三浦と平川にはその代表格になってほしいところ。さらなる飛躍を楽しみに待ちたい。

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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