青山敏弘にとって「夢のまた夢」だったW杯 “アクセント”を目指したブラジル大会の舞台裏

2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘【写真:Getty Images】
2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘【写真:Getty Images】

【2014年ブラジルW杯戦記|青山敏弘】11年のA代表初招集では「全くついていけず」

 カタール・ワールドカップ(W杯)は11月20日に開幕し、森保一監督率いる日本代表はグループリーグでドイツ代表、コスタリカ代表、スペイン代表と同居する過酷な状況のなか、史上初の大会ベスト8入りを目指す。

 7大会連続となる世界の大舞台。これまで多くの代表選手が涙を流し、苦しみから這い上がり、笑顔を掴み取って懸命に築き上げてきた日本の歴史だ。「FOOTBALL ZONE」では、カタール大会に向けて不定期企画「W杯戦記」を展開し、これまでの舞台を経験した人物たちにそれぞれの大会を振り返ってもらう。2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘(サンフレッチェ広島)が、8年前の記憶を紐解く。(取材・文=中野和也/全2回の1回目)

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 2010年6月24日、南アフリカW杯でグループリーグ第3節日本対デンマーク戦が行われた日、青山敏弘はオーストリアの首都ウイーンにいた。サンフレッチェ広島の夏季キャンプに参加するためだ。

 この年、彼は前年に続いて2度目となる左膝内側半月板損傷の手術を受け、戦列を離脱。6月21日にようやくチーム練習に合流した状況で、日本代表のことを考える余裕はなかった。自分のプレーを取り戻せるか、彼の意識にはそこしかなかった。

 岡田武史監督が率いる代表チームには、彼と同じ北京五輪世代の選手たちが中心となって活躍していた。デンマーク戦では長友佑都(現FC東京)と本田圭佑が先発し、サブには岡崎慎司(現シント=トロイデン)や内田篤人、森本貴幸(現台中Futuro)がいた。だが、彼らに対して青山が何かを思ったり、感じることもなく、純粋に代表チームを応援していた。

 この日はミハイロ・ペトロヴィッチ監督(当時)の計らいで、選手・スタッフ・報道陣も含めて、レストランで夕食をとりながら日本対デンマーク戦を観戦していた。本田の強烈な無回転フリーキック(FK)に驚愕し、遠藤保仁(現ジュビロ磐田)のテクニカルなFKに歓喜し、そして岡崎慎司のゴールで勝利を確定させた日本代表に全員で大きな拍手を贈った。その中に、満面の笑みを浮かべた青山は、確かにいた。

 3年前の2007年、北京五輪出場を懸けたアジア最終予選の対サウジアラビア戦、相手の決定的なシュートをライン上で防いだ青山は、間違いなくヒーローだった。だが、その試合の終盤に右足の指を骨折。中盤の要を失った広島はその年の入れ替え戦で京都サンガF.C.に敗れ、J2に降格した。そして2008年、青山は北京五輪の代表から外された。

 J2を無双状態で駆け抜け、2009年はJ1で4位。絶好調の広島を牽引していた紫の背番号6だったが、このタイミングで2度にわたる左膝内側半月板の手術。当時の彼に、代表を意識しろというほうが無理だ。2010年秋、アルベルト・ザッケローニが日本代表監督に就任。2011年8月の日本代表候補合宿に初めて招集された時も「自分の実力はまだまだ」と実感したという。

「この時のトレーニング、僕は全くついていけなかった。チーム戦術面でもそうだし、個人の能力にしてもそう。もっと力をつけないと、代表では闘えないと思ったんです」

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中野和也

なかの・かずや/1962年生まれ、長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート中国支社・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集、求人広告の作成などに関わる。1994年からフリー、翌95年よりサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するリポート・コラムなどを執筆。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。著作に『サンフレッチェ情熱史』『戦う、勝つ、生きる 4年で3度のJ制覇。サンフレッチェ広島、奇跡の真相』(ともにソル・メディア)。

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