青山敏弘にとって「夢のまた夢」だったW杯 “アクセント”を目指したブラジル大会の舞台裏

2013年の東アジア選手権で初めてW杯を意識

 2012年、森保一監督(現・日本代表監督)の下で広島は初優勝を飾る。青山は全34試合に先発し、2得点6アシストと活躍。初めてJリーグベストイレブンにも選ばれた。そして翌年7月、青山は東アジアカップ(現E-1選手権)の代表に選出される。この大会の日本代表は国内組だけで構成されていたが、翌年のW杯メンバーに選出される選手が7人も含まれており(柴﨑岳は体調不良のためこの大会を離脱)、ザッケローニ監督にとっては人材を発掘できた大会だったと言える。

「この時初めて、W杯を意識しましたね」と青山は振り返る。

「ただその“意識”は絶対的なものではなく、まずは目の前のこと。この大会で勝ちたい。勝って、監督に認められたいという想いが強かったですね」

 2年ぶりに日本代表に招集されて感じたことは、「やれる」という自信だった。

「戦術も理解できていたし、自分の力が評価されていることも分かった。次からは、代表は明確な目標になった」

 2013年8月のウルグアイ戦で招集されたあとは招集がなかったなか、14年3月のニュージーランド戦で先発出場。ハーフタイムでの交代となったが、前半だけで4得点という圧巻のパフォーマンスの中心となり、「23人枠」の可能性が出てきたと評価された。

「あの時の試合も、自分の中では手応えがあった。合宿でもやれていたし、いけるんじゃないかという感覚もあった」

 14年5月13日夕方、オーストラリア・シドニーのホテル。インターネットの回線レベルが悪く何度も映像が止まるなかで、日本代表メンバー発表会見をチーム全体が見守った。

「青山」

 確かに名前を呼ばれた。ロビーに集まっていた広島の選手たちは歓喜の叫びを上げた。しばらくして、エレベーターが開いた。青山が、そこにいた。拍手が鳴り止まない。選手たちは次々と青山に駆け寄り、そして抱きしめた。広島にとっては駒野友一以来2人目となるW杯日本代表が誕生した瞬間だった。

「自分にとってW杯、夢のまた夢だった。特別だった。本当に嬉しかったですね。監督の戦術についてもそうだし、自分にとってはいいタイミングだったと思う」

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中野和也

なかの・かずや/1962年生まれ、長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート中国支社・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集、求人広告の作成などに関わる。1994年からフリー、翌95年よりサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するリポート・コラムなどを執筆。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。著作に『サンフレッチェ情熱史』『戦う、勝つ、生きる 4年で3度のJ制覇。サンフレッチェ広島、奇跡の真相』(ともにソル・メディア)。

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