J1からオファーも…強化部長「断っておいた」 伝説GKが示した“男気”「不義理は嫌だった」

水戸の本間幸司GM【写真:河野正】
水戸の本間幸司GM【写真:河野正】

水戸GMに就任した本間幸司の現役時代を回顧

 プロのキャリアをスタートさせたJリーグ浦和レッズでは公式戦出場が1度もなかったが、1999年4月に日本フットボールリーグ(JFL)の水戸ホーリーホックへ移籍した本間幸司は、クラブとJ2を代表する伝説のGKとなった。2024年まで水戸で現役を続け、今季ゼネラルマネジャーに就任。J2最多の577試合出場を達成したバンディエラの29年間を回想する。(取材・文=河野正/全5回の4回目)

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 水戸がJ2に初昇格した2000年、本間は参加11チームの中で、最多の出場数と出場時間をマーク。01年以降も守護神としての地位を堅持し、クラブの顔役ともいえる存在になっていった。

 06年は右肩を手術した影響で開幕から24試合続けて帯同できず、メンバー入りも初出場したのも7月に入ってからだった。この年はリーグ戦出場が13試合にとどまったが、翌年には定位置に戻っている。

 J2のクラブ数が過去最多の20に増えた11年、2度目の偉業を達成した。ロアッソ熊本と対戦した10月23日の第32節で、史上3人目のJ2通算400試合出場を記録。GKとして、同一クラブの選手としては初の快挙だ。さらに2年後の13年には、ザスパクサツ群馬との開幕戦で史上初の450試合、翌年の第26節・ギラヴァンツ北九州戦で500試合と最多記録を更新し、16年5月7日の北九州戦では550試合に到達した。

「300試合の時に500まで頑張ろうかなって思い、記録を意識するようになりました。簡単な数字ではないので実現した時はよくぞここまでやれたと思う半面、まだゴールじゃない、もっとたくさん出場したいという欲が出てきたんですよ」

 長いこと、恥ずかしくて“J1昇格”の言葉を口には出せなかったが、柱谷哲二監督になって4年目、500試合を達成した14年あたりから、J1に上がって鹿島アントラーズと茨城ダービーを争いたいという願望が強くなってきたという。

 これだけの実力者だ。J1クラブから獲得の申し出はなかったのか。「結構ありましたよ。でも強化部長が契約交渉で『〇〇と〇〇からオファーがきたけど断っておいた。給料上げておくからいいよね』って言うんですよ」と大笑い。本間は代理人を付けたことがないが、「自分は昔の人間だし、簡単にチームを離れる不義理は嫌だった。水戸でプレーすることに喜びも感じていたので」と損得勘定など考えない男気を示す。

 晩年を除き、現役バリバリの往時にライバル的な存在はいなかったが、01~02年に在籍した8つ年長の石川研からは、GKとしての振る舞いや前向きな姿勢などを学んだ。ベテランには自分とは違う良さがあり、とても勉強になったそうだ。

 水戸には26年も在籍しただけに、数え切れないほどの仲間に出会ったが、03年にサンフレッチェ広島から期限付きで移籍してきたブラジル人のDFトゥーリオは、異彩を放った選手の代表格。同年10月に日本に帰化し、田中マルクス闘莉王と改名した。

 本間は表情を和ませながら、「自分を兄貴と慕ってくれ、浦和への移籍が決まった時はうれしかった。水戸で攻撃参加するスタイルを確立し、浦和でもやり通しましたね」と回想。現監督の樹森大介がFWだったが、「樹森さんじゃ点取れないから俺が行ってくる、って後半の終盤はほぼ(持ち場に)いませんでした」と爆笑する。その言葉通り、10点を挙げてチーム得点王になった。守備でも前監督の森直樹とCBを組み、失点はリーグ3番目に少ない堅陣を形成したのだ。

 加入18年目、節目の550試合出場を樹立した16年から試練のシーズンが続く。この年は7月の第25節が最後の先発で、代わって6年目の笠原昴史がゴールマウスを守った。翌年は笠原が全42試合に先発し、本間は控えが37試合でベンチ外も5度あった。

 18年は笠原の移籍に伴い11試合出場したが、正GKは松井謙弥が2年半務め、20年は松井と牲川歩見が半分ずつ。17、19、21、22年に本間の出番は1度も訪れず、20、23、24年がいずれも1試合だった。

「30代後半から体のケアを怠らなかったのですが、笠原が主力になった頃から疲れが抜けずパフォーマンスも上がらなくなった。毎日引退を考えていましたよ。でも浦和で3年間試合に出られず、自分に負けてしまったという後悔があったので逃げてはいけないと思い、ピッチに立てなくてもクラブに貢献できることはあると気持ちを切り替えた。あの苦しい時期があったからこそ、人として男として成長し、今の仕事にもつながる貴重な経験ができたんです」

 逆境に屈する人もいれば、本間のようにこれをバネにして器がひと回り大きくなる人もいる。振り返ってみれば、浦和時代の辛苦も無駄ではなかったということ。クラブと若い選手を後方から支えつつ、レギュラー奪還も真剣に考えた。

 河野高宏GKコーチを補助する形で牲川や村上昌謙、茂木秀といった若手の指導を買って出た。「僕みたいなおじさんが必死になっている姿を見たら、彼らが手を抜くわけにはいきませんからね」とうなずく。

 リーグ戦を6試合残した24年9月25日、クラブは本間のこの年限りでの引退を発表。自慢のシュートストップが納得のいくレベルに達しなくなり、疲労感も著しかったのが理由だ。47歳だった。

 唯一先発した11月3日の第37節は、残留を決めた直後のモンテディオ山形戦で、本間の“最終戦”となった。「僕はこう見えても緊張するタイプで、ピッチに入ったら平常心を保てましたが山形戦も試合前は緊張したなあ」と意外な一面を見せ、「でも後ろの選手はミスが失点に直結するので、少しは緊張したほうがいい」との持論も述べた。

 本間は3度ゴールを割られたが、当時ホーム最多となる1万488人の観衆が、最後の勇姿を見届けようと集まった。「コレオの演出もあって感激しました。J2で長いお付き合いでしたから、山形サポーターの方々も横断幕を出してくれたし、セレモニーまで残っていただいた。感謝しかなかった」と謝意を示した。

 J2通算577試合出場は、J1を含めても全体で6番目に多い偉業だ。水戸とともに歩んだ26年間は、クラブの歴史そのもの。苦難のほうがはるかに多かったが、それを乗り越えたからこそ、余人をもって代え難い傑物が誕生した。(文中敬称略)

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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