古巣浦和との開幕戦に感動「長く現役でいようと決めた」 水戸の伝説・本間幸司氏の自負「飛距離は日本一」

水戸の本間幸司GM【写真:河野正】
水戸の本間幸司GM【写真:河野正】

水戸GMに就任した本間幸司の現役時代を回顧

 プロのキャリアをスタートさせたJリーグ浦和レッズでは公式戦出場が1度もなかったが、1999年4月に日本フットボールリーグ(JFL)の水戸ホーリーホックへ移籍した本間幸司は、クラブとJ2を代表する伝説のGKとなった。2024年まで水戸で現役を続け、今季ゼネラルマネジャーに就任。J2最多の577試合出場を達成したバンディエラの29年間を回想する。(取材・文=河野正/全5回の3回目)

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 99年の第1回JFLは横浜FCが制した。しかし準会員での参加だったため、3位の水戸が正会員としては2位と判断され念願のJ2昇格が決まったのだ。本間は水戸に移籍して2年目で、再びJリーグの舞台に戻ることになった。

 その一方、古巣の浦和は99年のJリーグで年間15位に沈み、導入された昇格・降格制度の適用第1号となって、2000年はJ2転落という憂き目に遭った。

 合縁奇縁。こんなに早く浦和と顔を合わせる機会が巡ってくるとは、想像できなかったろう。ましてや3月11日の開幕戦の対戦相手が浦和で、トップチームの一員としては1度もピッチに立ったことがない浦和駒場スタジアムが会場。何とも出来過ぎた望外のシナリオが用意されていた。

「高校3年の秋、駒場で見た熱狂的な浦和サポーターに驚き、決まりかけていたジュビロ磐田から入団先を浦和に変えたんです。浦和のユニホームを着て、駒場の一番後ろでゴールを守りたい思いで入団したのですが、その夢はかなわなかった。でもJ2開幕戦でいきなりあれでしょ。サッカーの持つパワーを思い知り、めちゃくちゃ感動したのでもう少し長く現役でいようと決めました」

 スタジアムに2万人近い観衆が集まる中、水戸は前後半に1点ずつ失って0-2で開幕戦を落とした。本間は水戸に転籍した当初、そう長く選手を続けるつもりはなかったのだが、チームメートのサッカーに寄せる熱量と開幕戦の歓喜により、さらなる高みを求めていった。

 浦和にはリーグ戦で4連敗を喫したが、開幕戦を除く3試合は1点差の接戦で、延長Vゴール負けもあった。ホームゲームは2試合とも、本間の地元にある日立市民運動公園陸上競技場で開催。同市からは昨年、「ふるさと日立大使」を委嘱されている。

 JFLとJ2では水準に大きな差があったことで、また違った角度からサッカーの面白さを味わえたという。すぐにJ1へ上がろうという功名心、無失点試合を何度もやり遂げてやろうとする過剰な欲もなく、ただただ試合に出られる無上の喜びを感じ、浦和では経験できなかった充実した毎日に感謝した。

 現在ファジアーノ岡山を率いる木山隆之も、本間に1カ月遅れの99年5月に加入し、中堅選手として守備陣をまとめた。本間にとってこの人との出会いも大きかったそうだ。

 クラブの環境に改善が見られず、選手も毎年のように入れ替わり、観客は少なく希望するだけの昇給もなし。「正直、本気でサッカーと向き合えない時期もあった」と打ち明ける。しかし現役を退いた木山が08年、当時Jリーグ史上最年少の35歳で水戸の監督に就任した。「あれでまたスイッチが入り、頑張ろうってモチベーションが上がりましたね」と思い返した。

 大笑いしながらこんなエピソードを披露してくれた。

「チームが弱いこともあって、次から次へとシュートが飛んできました。1試合20本とか余裕ですよ。そんなもんでDFの木山さんが『幸司、ペナ(ペナルティーエリア)の外からなら打たせても止められるだろ』って言うんで、『OK』とか返していました。抑えるかやられるか、勝てるか勝てないかという戦いを繰り返していたんですが、試合が本当に楽しかった」

 ピッカピカのJリーグ1年生はこの年、15勝4分け21敗の9位でシーズンを終えた。37得点61失点。本間は全40試合にフル出場したことで、61回ゴールを割られた計算になる。

 だが全試合に出続けるのは並大抵のことではない。00年のJ2で40試合に出場したのはアウミール(コンサドーレ札幌)、岡本隆吾(大宮アルディージャ)、酒井良(湘南ベルマーレ)、鈴木慎吾(アルビレックス新潟)を含めた5人しかいない。この中でフルタイムとなると本間だけ。当時は延長戦があったから稼働時間は3808分にも及んだ。本人はこれを取材中に初めて知り「僕が最長出場だったんですか」と驚いた。

 00年はチーム初の外国人指揮官、情熱とロジックを持ち合わせたセルビア人のバビチ・ブランコ監督が就任。本間への信頼度は高く、かわいがってもらったそうだ。

 J2に上がっても相変わらず自前の練習場はなく、毎日のように転々とした。ただ最初の専用グラウンドについては感慨深いものがあるという。那珂川の河川敷、水戸市内に“ホーリーピッチ”と呼ばれる練習場が、06年7月に完成した。「ここにサポーターと一緒に芝の種をまいたんです。これが本当に生えてくるのかね? なんて疑っていたら芽が出てきたんですよ。あれには感動しました」と表情を崩した。

 消防法で散水できず硬いピッチが難点だったが、18年2月までトップチームの拠点になった。

 ところでGKとしての最大の武器は何だったのか? 本間は「一歩出てからのダイビングの飛距離は、日本一という自負がありました。その一歩だけでゴールの角上まで跳べたんですよ。体の連動性は持って生まれたものだと思います」と即答。これについては人後に落ちないという表情を見せた。

 両親がバレーボール選手という血筋に加え、浦和時代の恩師である野崎信行アスレティックトレーナーの教えを自分なりに追求したからだ。

 J2で試行と失敗を重ねながら、クラブの“生き字引”は着実に出場回数を伸ばしていった。(文中敬称略)

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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