志半ばで決断した“代表引退” 欧州移籍で急成長…遠藤航が築いた新たな歴史

欧州移籍を機にボランチとして急成長を遂げる
「自分は今回の活動をもって代表を引退する事にします。なので、これからは1人のファンとして日本代表を応援していきます。
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将来、日本代表がW杯で優勝する瞬間は必ずきます。それを信じてみんなで応援しましょう」
現地時間6月11日に2026年北中米ワールドカップ(W杯)が開幕し、同14日に初戦・オランダ戦(ダラス)を控える日本代表にいきなり激震が走った。左足首負傷から回復途上だったキャプテン・遠藤航(リバプール)が11日朝、チームを離脱。その直後に自身のSNSで代表引退を表明。多くの人を驚かせたのである。
11日のトレーニング後、この一報を知った長友佑都(FC東京)は「彼が決めたことなんで、そこの気持ちは僕にはわからないです。彼にしか分からない部分なんで、それを尊重してあげないといけないし……」と涙目で戸惑いを口にした。
その傍らで、5月31日のアイスランド戦(東京・国立)でスタートからボランチコンビを組んだ田中碧(リーズ)はその一戦が遠藤の代表ラストマッチになるかもしれないと伝えられ、数秒考え込み、涙を拭う仕草を見せた。そして「ちょっと一回、整理しなければいけない部分があるかもしれないですね」と神妙な面持ちで言葉を発した。
それだけ遠藤航の離脱・代表引退というのは、チーム全体に大きなインパクトを残すことになった。この衝撃が3日後のオランダ戦にどう影響するのか。JFAの山本昌邦技術委員長は「選手、コーチングスタッフ以下、経験ある選手もいるので、しっかり落ち着いて、初戦に向けて準備を進めています。逆に覚悟と緊張感も高まっているので」と前向きに発言していたが、本番の戦いを見てみるしかないだろう。
自ら「2026年W杯優勝」の大目標を掲げながら、志半ばでアメリカから去ることになった遠藤航。彼のA代表キャリアのスタートは2015年の東アジアカップ(武漢)だった。ヴァイッド・ハリルホジッチ監督に抜擢された当時22歳の彼はボランチや右サイドバック(SB)で起用され、「守備のマルチタスク」という位置づけを担っていた。
翌2016年に湘南ベルマーレから浦和レッズへ移籍した後は3バックの一角でプレーすることが多く、本人は「自分はボランチで勝負したいけど、チームではDF。そのギャップを自分なりに埋めていくしかない」と常日頃からコメント。複数のポジションをこなしながら高みを目指す難しさに直面していた。
それが2018年ロシアW杯での出番なしにつながったのだろう。大会2か月前に指揮官が交代し、西野朗監督体制に移行する中、彼は最終登録メンバーに抜擢され、初の世界舞台に赴いた。が、ボランチには長谷部誠(日本代表コーチ)や柴崎岳(鹿島)が君臨。右SBにも酒井宏樹(オークランドFC)がいて、酒井高徳(ヴィッセル神戸)も両SBをこなしていたため、遠藤がピッチに立つ機会はなかった。
「自分はボランチで勝負していかなければ、世界では戦えない」と本人も改めて決意。2018年7月にシント=トロイデンへ移籍し、ボランチ道を究めていくことになった。そんな思いをロシアでコーチとして共闘した森保一監督は汲んだのだろう。
同年9月の森保体制初陣からは遠藤をボランチの主軸に据え、チーム作りをスタートさせていく。2019年アジアカップ(UAE)でも遠藤・柴崎の同級生ボランチがチームをけん引。遠藤が発熱でUAE入りが遅れた初戦・トルクメニスタン戦、太もも裏を負傷し欠場した決勝・カタール戦で大苦戦を強いられたのを見ても分かる通り、彼は新たな代表に不可欠な人材となっていったのだ。
そこから遠藤は急成長。2019年夏にシュツットガルトへ赴いてからの飛躍ぶりは目を見張るものがあった。最初の1年はブンデスリーガ2部で、途中までは出番を得られなかったが、徐々に信頼を勝ち取り、最終的にはキャプテンに就任。2020年夏以降はブンデス1部に参戦。「デュエル王」という確固たる地位を築いた。球際の強さや寄せの激しさで日本人選手が欧州5大リーグを席巻するというのは、それまでの常識にはなかったこと。遠藤はそれをやってのけたのだ。
さらにシュツットガルト時代の後半は万能型MFとして大活躍。2023年2月から半年間共闘した原口元気(ベールスホット)も「航は全てにおいてクオリティが高いし、違いを作れる。一緒にやってみて凄さが分かった」としみじみ語っていたほど。2022年カタールW杯で中盤をコントロールした自信も加わり、彼はこの時点では世界トップクラスのボランチとなっていたのである。
だからこそ、2023年夏、30歳でのリバプール移籍が実現した。もちろん香川真司(セレッソ大阪)、南野拓実(モナコ)を指導したユルゲン・クロップ監督(レッドブルサッカー責任者)が日本人選手への絶大な信頼を寄せていたことも大きかったが、その年齢の日本人ボランチを獲得すること自体、異例中の異例。遠藤は日本サッカー界の新たな歴史を作ることに成功した。
それからは紆余曲折もあったが、リバプール最初の1シーズンはコンスタントに出場機会を得て、その高度な経験値を確実に代表へ還元していた。
「カタールW杯でクロアチアに負けた時に感じたのは、モドリッチ(ACミラン)やコバチッチ(マンチェスター・シティ)を下げてもそれだけの選手がいるということ。日本も個人のベースを上げなきゃいけないし、さらに上の所属クラブに行って、ポジションを勝ち取る選手がもっと増えていかなきゃいけない」と本人もカタールW杯後に強調していたが、自身が率先して最高峰レベルに到達。強豪国とも互角に戦える日本代表を作ろうと懸命に努力を続けていたのである。
その集大成が2026年W杯になるはずだったが、アルネ・スロット監督体制のリバプールで徐々に出番が減少。2024〜25年のW杯最終予選のあたりから試合勘が不安視されるようになる。そこに追い打ちをかけるようにケガも増加。日本がブラジルを撃破した2025年10月シリーズ、今年3月のイングランド遠征も欠場を余儀なくされた。
特に今年2月11日のサンダーランド戦での左足首負傷は想定上のダメージだった。W杯のために本人は人工じん帯を入れる手術を決断。大舞台に間に合うと信じてリハビリを続けてきたが、回復が思わしくなく、”リバプール・遠藤”としての3度目のW杯の道は断たれることになってしまった。
本当に彼が代表を退くのであれば、足掛け11年間で73試合に出場し、4ゴールという数字でひと区切りということになる。彼ならばもっと数字を伸ばせただろうし、30代半ばでも代表キャリアを続行できただろう。その可能性を自ら封印し、クラブでのプレーだけに絞って現役を続けることを選んだのは、長谷部コーチの姿が影響しているのかもしれない。長谷部コーチも2018年ロシアW杯の後、フランクフルトのプレーに専念。そこでリベロとして新境地を開拓したが、遠藤もこの先のサッカー人生を納得いく形で追求していくのではないか。
いずれにしても、もう日の丸を背負った彼の姿が見られないのは寂しい限り。できればもう一度、戻ってきてほしいというのが筆者の本音だ。優勝を目指した大舞台に立てなかった遠藤のためにも、日本代表は確実にオランダに勝ち、他のチームも撃破し続けていかなければならない。遠藤自身もそれを心から願っているに違いない。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。
















