武者修行のドイツで学んだ「理屈じゃない」 勝ち取った世界2位…トルシエが重宝した”ドリブラー”

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:永井雄一郎(ザスパ群馬アカデミーダイレクター兼U-18監督)第3回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。ドリブルが代名詞である永井雄一郎にとって、その武器は“抜く”ものではなく“運ぶ”ものだという。何よりもチームを、組織を優先するドリブラーは、ドイツでの武者修行を経て、1999年のワールドユース選手権で準優勝の快挙に貢献することとなる。(取材・文=二宮寿朗/全5回の3回目)
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ドリブルで「抜く」と「運ぶ」では、意味合いがまるで違ってくる。
まったく同じ動作で、同じ状況であっても前者が個に向いているのに対して、後者はそれが組織になる。
三菱養和で小1から高3まで12年間、磨き上げたその精神はサッカー人、永井雄一郎の基本姿勢ともなる。
「たとえば目の前のディフェンスを抜きたいと考えてドリブルをしたら、僕としてはその時点でダメなんです。チームが点を取るために最善の方法としたら、自分が前に運んでいくんだ、と。だから自分のことを“運び屋”なんて思っていましたよ。近くに得点の取れる確率の高い選手がいれば、そこに出します。でも小さい頃は視野が狭くて、そうしたくても難しかった。相手が2人ディフェンスに来ても、ドリブルしかできなかった。段々と顔を上げられるようになって、2人来たらどこか空いているわけなので、そこが見えるようになりました。空いている人を使ったほうが効率的ですから」
チームで点を取っていくための運ぶドリブル。前傾姿勢ではなく、闇雲でもなく、目線を高くして周囲を把握し最適解を見つけ出していく永井流。足が速く、ドリブルのスピード自体もあるため、相手からすれば厄介極まりない。
プロのフットボーラーとなってからも、そのドリブルは永井の代名詞となる。
高校を卒業した1997年、三菱養和時代から練習参加していた浦和レッズに加入。横浜マリノスとの開幕戦(4月12日)にスタメンで出場し、井原正巳、小村徳男という日本代表のセンターバックをドリブルで翻弄した。そして7月9日のヴェルディ川崎戦でJ初ゴールを挙げる。ペナルティーエリア内まで運んでいって、右足でゴール左に蹴り込んだ。ルーキーイヤーから独特なドリブルは注目を集めた。
「基本的には相手が自分の進行方向からいなくなるためのドリブルをしていましたね。向かいたい方向にディフェンスがいたら、この人をどかさなきゃいけない。自分がちょっと(動きの)矢印を出して相手を動かせれば、行きたい道が開くんです。1人抜いても、次に来る人に止められたら意味がない。だから目の前にいる人、次に来る人、もっと言うならGKを見ながらドリブルをしていました」
永井の伝説的なドリブルと言えば、2004年8月21日の東京ヴェルディ戦での70mゴールである。相手のCKからのボールをキャッチしたGK都築龍太から左サイドのスペースに送られたボールを受け取って1人目をかわし、2人目、そしてすぐ後にやってきた3人目をダブルタッチで抜き去って最後は右足で決めた。
「次々に相手がやってくるなかで進んでいくしかない。だからスライディングしてきても大きくかわしている時間なんてないんです。それこそピアノで習った反射ですよね。ポンってダブルタッチして進むだけ。いかにゴールに向かって真っすぐ最短距離で行けるかどうか」
広い視野と逆算力を駆使して行きたい道を開かせていく。まさに永井のこだわりがすべて詰まったドリブルであった。このゴールでプロ初のハットトリックを達成するおまけまでついた。
ドイツ留学で“パワー勝負”への苦手意識を払拭
話をプロキャリアの序盤に戻したい。
レッズ1年目は30試合に出場できたにもかかわらず、原博実体制となった2年目の1998年は「戦えていない」との評価を下されてサテライト行きとなる。その後、レッズを去ったギド・ブッフバルトが所属するブンデス2部カールスルーエへ期限付き移籍。基本的には3部で戦うセカンドチームでプレーすることになり、“留学”に近い移籍であった。ドイツは体をぶつけ合うフィジカル重視のサッカーを志向しており、まさにツヴァイカンプ(1対1の競り合い)で勝てないフットボーラーが生き残れない世界だった。
午前はトップチームの練習に参加し、昼は週4日、語学学校に通って勉強。そして夕方からはセカンドチームの練習をこなして週末の試合にも出場する。そのハードな日々を1年間通したことで、肉体的にもずいぶんとタフになった。
「Jリーグは外国籍選手のパワーにやられるのが嫌で、当たられないようにプレーしていました。でもドイツに行ったら、理屈じゃないところで戦わなきゃいけなくなる。本当に体ごと潰しに来るし、そこに対抗していかなきゃいけない。自分からも潰しに行ったし、そのようなメンタリティーは植えつけることができました。パワーで当たられる苦手意識もなくなっていった感じはあります」
考える人が、プレー中に考える暇を与えてくれない。本能で勝負できる術に磨きをかけることができていた。
カールスルーエ時代に出場したのが1999年4月にナイジェリアで開催されたワールドユース選手権(U-20ワールドカップ)。永井は高原直泰と2トップを組み、この大会に臨んだ。もし「戦えない選手」であればフィリップ・トルシエ監督から重用されなかったはずである。ドイツでの上積みが、永井の幅を広げていたのは間違いなかった。
大会に入るまでは絶好調だったが、ナイジェリアの暑さにやられてコンディション調整に苦しんだ。ドイツが涼しかった影響もあった。それでもチームのために奮闘する永井がいた。
4月21日、ディエゴ・フォルランのいるウルグアイとの準決勝。相棒の高原が先制点を奪いながらも、すぐに同点に追いつかれる。その約10分後だった。本山雅志のパスを受けた永井がゴール前でシュートコースをつくって右足を振り抜き、2点目を奪う。このゴールが決勝点に。大事な局面で大事なゴールを奪う、永井のサッカー人生を象徴するような一発でもあった。
「嬉しいというよりは、やっと取れたって感じでしたね。なかなか点の取れない自分を使い続けてくれたトルシエ監督には感謝しかなかった。準優勝に貢献できたつもりなんかなくて、チームメイトのみんなが与えてくれた感覚ではあります。
今、指導する立場になって、トルシエさんの影響を多少なりとも受けているな、とは感じます。彼はボールが動けば、全員が関わり続けるサッカーを志向していて、僕も似ています。常にオフ・ザ・ボールで関わっていくというのはやっていることなので」
ワールドユース後、永井にはカールスルーエに残る選択肢もあったという。だが考える人は明確な理由を持ってレッズに戻る決断を下した。(文中敬称略/第4回に続く)
■永井雄一郎 / Yuichiro Nagai
1979年2月14日生まれ、東京都出身。三菱養和SCユースから97年に浦和レッズに加入し、1年目からリーグ戦30試合出場3得点を記録。同年のワールドユース選手権(現・U-20ワールドカップ)にも出場した。カールスルーエ(ドイツ)への期限付き移籍を経て99年は浦和に復帰すると、2度目のワールドユース選手権出場を果たし、日本の準優勝に貢献。2003年にはA代表にデビューし、初得点も記録している。浦和ではJ1優勝、AFCチャンピオンズリーグ優勝などを経験。09年の退団以降は、清水エスパルス、横浜FC、ザスパクサツ群馬(現・ザスパ群馬)などのJリーグクラブのほか、アマチュアチームを渡り歩き、選手兼監督としても活躍。26年からはザスパ群馬のアカデミーダイレクター兼U-18監督を務めている。
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。





















