組織的守備→個人技へ…日本代表に抱いた「大きな期待」 カメラ越しに見た革新的理想

組織力を個で上回るブラジル的なスタイルで、日本はさらなる成長を目指した
自国開催となったワールドカップ(W杯)を体験できることは、ひとりの人間の人生において、そう何度もあることではない。それだけに2002年に行われた日韓W杯で実際に見たスター選手たちの競演は、いまでも鮮明な記憶として残っている。(文=徳原隆元)
【PR】ABEMA de DAZN、2/6開幕『明治安田Jリーグ百年構想リーグ』全試合生配信!毎節厳選6試合は無料!
アジアで初となり、共同開催も過去に前例のないW杯で、世界チャンピオンの称号を手にしたのはサッカー王国ブラジル。そのセレソン(ブラジル代表の愛称)の優勝までの道のりは、南米予選でのかつてない低迷を乗り越えて達成された、実にドラマティックなものだった。
予選を通してブラジルは怪我による主力選手の欠場と、成績不振によりバンデルレイ・ルシェンブルゴに始まりカンジーニョ(ルシェンブルゴが解任されたあと、コーチであった彼がワンポイントで指揮)、エメルソン・レオン、そしてルイス・フェリペ・スコラリと3度も監督が交代する混迷によって低空飛行が続いていた。
当初、予選はサンパウロ市のモルンビーとリオ・デ・ジャネイロ市に建つブラジルサッカーの聖地マラカナンの2つの巨大スタジアムだけで行われる予定だった。しかし、主要都市のブラジルサポーターの目は厳しい。不甲斐ないプレーを続けるセレソンにサポーターは容赦ないブーイングを浴びせ、ホームスタジアムにもかかわらず、そこはまるでアウェー戦のような圧迫感に支配されることもあった。ブラジルはこの地の利を活かすことができない味方からのプレッシャーから逃れるため、試合を指揮官ルイス・フェリペ・スコラリの地元であるポルト・アレグレ市や地方での開催へと変更していく。
予選終盤はホームで勝ち、アウェーで負けるを繰り返し、復調の兆しが見られないまま最終節を迎えた。ブラジルはこの初の予選敗退がチラつく、痺れるような緊張感がスタジアムを支配する最終節でサッカー大国としての意地を見せる。おそらくこれからの人生で、もう二度と撮影で行くことはないであろうサンパウロ市から直線距離で遥か2400キロ離れたマラニョン州のサン・ルイス市で行われた、薄暗い照明がピッチを弱く照らす試合で、ブラジルはベネズエラから勝利を奪取し本大会出場を決めたのだった。
そして、ここから真のドラマが始まる。カナリア色の精鋭たちは予選での低迷から一転して、本大会で不死鳥の如く蘇る。なにより怪我から復帰したロナウドの存在が大きかった。さらに予選を通して活躍したリバウド、急成長を遂げたロナウジーニョが形成する、それぞれの名前の頭文字を取って3Rと称された攻撃陣が本大会で爆発する。
ブラジルは組織で戦うドイツとの決勝戦をエース・ロナウドの2得点で勝利し、横浜の空にワールドカップを掲げたのだった。世界のサッカーが戦術重視へと向かっていたなか、カナリア軍団は圧倒的な個の力によって相手のシステムを粉砕し優勝を果たした。ロナウドは得点王を獲得し、ブラジルの優勝に大きく貢献した前線の3Rは大会を代表するスターとなった。
ブラジルの優勝で幕を閉じた日韓W杯で、ホストカントリーの日本はグループリーグ突破を現実的な目標として掲げていた。日本はその設定に対して、指揮官フィリップ・トルシエが心血を注いでチームに落とし込んだ、3バックが連動してゾーンで守るフラット3を武器に、見事グループリーグを無敗で突破する。だが、決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れあっけなく大会から去ることになってしまった。
日本のW杯本大会の流れを振り返れば、初出場となった前回のフランス大会はグループリーグを全敗で終えている。そこで迎えた自国開催の舞台で初勝利を挙げる成果を出したのだ。終わり方としては不完全燃焼の感は否めなかったが、日韓W杯は日本が世界との差を縮める一歩を踏み出した大会となった。
W杯自国開催の熱狂のあとを受けて、新たに監督の座に就いたのが日本サッカーの発展に大きく貢献していたジーコである。このブラジル人監督は前任者が組織的な守備を要に、世界と向き合ったのとは対照的に、個人技術を前面に出した攻撃的なスタイルで、日本をさらなる強豪へと導こうとした。
ジーコが選び出した中盤には中田英寿、小野伸二、中村俊輔、稲本潤一といった活躍の舞台を世界へと広げていたハイレベルな選手が揃っていた。日韓W杯ではブラジルが3Rによる個人技で組織を凌駕し、頂点まで上り詰めている。
いまこうして考えてみると、日本に抱いた攻撃的なサッカーへの渇望は世界とのレベルを冷静に比較した場合、甘い幻想に過ぎなかったと思う。だが、当時は組織力を個で上回るブラジル的なスタイルで、日本がさらなる成長を目指すことに対して、それほど無謀とは思わなかった。日本サッカーの新たな姿を描こうとするジーコの試みに、大きな期待を抱いたことをいまでも覚えている。
しかし、海外でプレーしていた選手たちの積極的な起用は、アジアでの予選ではどうしても長い移動が伴うため、コンディション面での問題が浮き彫りとなる。ジーコの海外組を優遇する起用法は行き詰まり、反対に国内組を使った試合の方がチームとしてうまく機能するちぐはぐな状態は、時間を費やしても解消されることはなかった。ブラジル人監督の個人能力を第一とする革新的な理想を掲げた挑戦は、ドイツW杯で花開くことなく終わった。
このころの日本はW杯に連続出場を続けているものの、まだ世界との戦い方で試行錯誤の段階にあった。サッカーに明確な答はないが、当時の日本は世界との向き合い方について確固たる方向性を見つけるまでは至っていない。日本がサッカーというスポーツで結果を出し、世界から注目を受けるには知っての通りさらなる時間を要することになる。
各大陸の予選を勝ち抜き、選りすぐられた国が集う4年に一度のW杯の舞台は、日本が世界と比較してどのレベルにあるのかを知るうえでも重要な大会である。6月開催の北中米W杯で日本はどこまで世界にその存在を知らしめることができるのか。
現在のサムライブルーなら、その現在地が世界のトップに近いことを示せるだけの自力を秘めていることは間違いない。
(徳原隆元 / Takamoto Tokuhara)
徳原隆元
とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。





















