試合中に「起きてるか」…森保先輩は「とにかく怖かった」 久保竜彦を覚醒させた経験

1年目はボランチも主戦場だった久保「森保さんの隣でプレーしていたんです」
最近、「本職でもないのに」とポジションのコンバートについて否定的な意見を耳にする。しかし、様々なポジションでプレーできることは選手にとって決して、悪いことではない。(取材・文=中野和也/全10回の6回目)
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例えば今のサンフレッチェ広島で最も得点の香りがする中村草太は、シャドーストライカーだけでなくワイドでもプレーし、結果も出している。広島のレジェンドである青山敏弘は右ワイドでプレーしたこともあるが、その経験が後の自分にとって活きたと語っていた。
久保竜彦も同様である。
彼は高校時代からトップ下かサイドハーフが主戦場だった。プロ入り1年目(1995年)にしても、サイドハーフやサイドバック、ボランチやセンターバックでも試されている。そして夏をすぎた頃から、彼はフォワードでプレーすることになる。
「だからトレーニングでは、森保(一現日本代表)さんの隣で(ボランチとして)プレーしていたんですが、よく怒られてました。『タツ、勝手に前に出るな』『早く戻ってこい』とかね。あと、よく言われていたのが『タツ、起きてるか』(苦笑)。ボーッとするなってことだったんですけどね。とにかく怖かったんで、必死に(ポジションに)戻っていました」
久保は森保に「切り替える早さの大切さ」を教わった。攻撃→守備でも守備→攻撃でも、常に連続している試合の中では立ち止まっている暇はない。
「森保さんは本当に切り替えが早かった。俺はよく審判にぐちぐちと文句を言っていたんだけど(苦笑)、そういうことをやっていてはダメだってことを教えてもらいましたね」
当時の広島を支えていたエース、高木琢也の怪我もあってフォワードの枚数が足りなくなったこともあり、久保のフォワード転向は当時のサテライトチーム監督であった河内勝幸氏によって決断された。そしてこのことが、久保自身にとっても、広島や日本サッカー界にとっても、大きな転機になったわけだが、当時はもちろん、そんな感覚はない。
久保にとっては、フォワード転向よりもむしろ、違った視点での驚きが1年目には存在した。
「カツさんが教えてくれたサッカーは、自分にとっては衝撃的だった。ボールを運べるポジションをとって、ダイレクトでポンポンとパスを簡単につないで、シュートまで持っていく。そんなサッカーなんて、プロに入るまで知らなかった」
それまで、彼のサッカーは個人技そのものだった。ボールを受けたらドリブルして、シュートする。その繰り返しだったのに、広島がやっていたのはチームプレーそのもの。そして、その組織プレーがはまったときの快感、気持ち良さも、彼は広島で初めて知った。
一方、河内サテライト監督は、久保の成長を肌身で感じていた。当時のコメントをご紹介しよう。
「吉浦茂和先生(筑陽学園高)は、タツをほぼ白紙の状況で我々に託してくれました。本当にありがたかったですね。それによってタツは我々が教えることをスポンジのように吸収してくれたので」
プロ1年目はトップチームでの公式戦でプレーする機会はなかった。だがサテライトリーグではヘディングで得点をとり、周囲からストライカーとしての可能性を指摘されてもいた。
1996年4月3日、清水エスパルス戦で久保は公式戦デビューを果たす。そして6月15日、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)ガンバ大阪戦(ホーム)で、プロ初得点を記録した。その4日後にはアウェーでのG大阪戦でも決め、2試合連続得点。続く柏レイソル戦では得点こそ奪えなかったものの圧巻の活躍を見せ、柏の名将・ニカノール監督を驚かせた。次の広島戦、指揮官は記者会見でこんな言葉を紡いだ。
「日本のサッカーファンは、久保竜彦という存在を持ったことを幸せに思うでしょう。日本のサッカーにとって、宝石そのものであり、財産です。これからも大切に育てていってほしい」
監督が相手チームの若者を試合後の記者会見で、記者から質問されていないのにこれほどの言葉で絶賛したのは、ニカノール監督以外には知らない。近いのは今季9月12日の広島対京都サンガF.C.戦後、曺貴裁監督(京都)が中島洋太朗に対して「非常に頼もしい存在」と語ったことくらいか。
当時のビム・ヤンセン監督は久保の才能を評価し、リーグ戦でも積極的に起用し始めた。10月2日、セレッソ大阪戦で2得点をあげて勝利に貢献すると、期待が一気に増幅。翌年1月1日、天皇杯の決勝を実況の山本浩アナウンサー(NHK)はこう実況している。
「この元日の国立でのプレーは、久保竜彦という若者の将来にとって、大きな財産になるに違いありません」
0-3で敗れたチームの途中出場選手に、しかも年代別代表にも選出経験もない若者に対して、異例のコメントだったと言っていい。
多くの人々に対して久保竜彦という名前を刻みこんだ1996年が終わった。そして翌年の結婚を機に久保は、さらなる成長を重ねることとなる。
ただ、その前に、彼らしいエピソードを1つ、ご紹介しておこう。
1997年の久保は22試合7得点と成績を伸ばし、そのダイナミックなプレーぶりと左足の破壊力を評価され、「将来の代表もある」と言われ始めた。筆者も質問を投げかけてみた。
「代表っすか。あんまり行きたくないっすね。というか、あんまり外国には行きたくないから」
「え? どうして?」
「(1997年の)オーストラリアキャンプで初めて外国に行ってから、もう絶対に行きたくないって感じて」
「何が原因なの?」
「食い物です。和食がなかった。特に醤油がなかったことが大きかったっす。味噌汁もなかったし、刺身とかもないし……」
「奥様は、魚料理をつくってくれますか?」
「はい。一匹は食わないと、気が済まん(笑)。魚をきれいに食べるんやなって、よく言われます。美味いっすよね。骨までしゃぶります(笑)」
こういう純日本男児が1998年、日本代表に初選出されることになる。そこには、フランスで生まれ育った奇才=フィリップ・トルシエとの出会いが待っていた。
(中野和也 / Kazuya Nakano)





















