Jの歴史上1度のみの珍事「お前が行けと」 口数少ないGKが放った”金言名句”「優勝は難しい」

PKでゴールを決めた浦和GK田北雄気
Jリーグ最初の公式大会は、1992年秋に開催されたナビスコカップだ。あれから今季で35年目。Jリーグの公式戦でGKが得点した例は過去に10度あるが、PKで決めたゴールは浦和レッズ・田北雄気の1度だけ。1996年の横浜フリューゲルス戦での得点は、GKによる第1号でもあった。
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Jリーグが始まった1993年、浦和にはともに元日本代表の名取篤や田中真二ら浦和市で生まれた選手が7人いた。1992年に日本サッカーリーグ(JSL)2部のNTT関東から移籍してきた田北も、そんな浦和っ子のひとりである。
大宮東の守護神として第64回全国高校サッカー選手権に初出場。東海大学から1990年にNTT関東に入り2シーズン在籍した。日本サッカーがプロに移行した1992年、田北自身もプロ選手になる腹を固め、5月に生まれ育った浦和の一員となる。
その年に在籍したGKは田北のほか土田尚史、園部晃久、高橋範夫、高村元洋の5人で、同年の公式戦(ナビスコカップと天皇杯全日本選手権)13試合は、すべて土田がフル出場。6度あったプレシーズンマッチも土田が4試合に先発し、田北の出番は栃木県でのヴェルディ川崎戦と岩手県での横浜フリューゲルス戦の2試合だけだった。
新天地での日常に胸を躍らせたが、1992年から95年までの3シーズン半で、田北が公式戦に出場したのは22試合。それも実力で勝ち取ったというより、土田が右膝半月板を痛めて離脱したことでお鉢が回ってきたのだ。
1993年秋にはスロバキア代表候補、当時のJリーグで最長身だった191センチのGKミロ・メンテルが加入すると控えに回り、時を同じくして右膝の怪我が悪化。ここから手術を経て1年4か月もの間、治療とリハビリに費やすつらい日を過ごすことになる。
いつでも、どこでも、どんな時でも田北はポーカーフェースを崩さなかった。喜怒哀楽の表情もほとんど見せない。「闘志をむき出せという意見もあるけど、自分のスタイルを変えるつもりはない。性格的にオーバーな喜び方も派手なパフォーマンスも好きじゃない」。一途な男だ。
再起を懸けた1996年は膝の怪我が完治し、自主トレから軽快に動いて2月1日のチーム始動日を迎えた。正月に長女が誕生したことも、クールな男の闘志をたぎらせる原動力となる。鹿児島県指宿市での1次合宿では言葉も弾んだ。
「こんなにいい状態でシーズンを迎えるのは3年ぶり。怪我をして手術と治療、リハビリで1年半近くもブランクがあったが、この間に自分を見つめ直し、いろいろなことを考えられた。今年は勝負の年、このチャンスを逃すつもりはない」
大言を吐くことがないだけに、珍しい抱負というか意気込みだ。5年目に懸ける思いがにじんだ。
チームは2月19日からオーストラリアに移動して2次合宿を行ったが、ここで不意の変事が起こった。同27日午前の練習中、DFバジール・ボリの弾丸シュートが土田の右目を直撃。当地の病院に11日間も入院する重傷を負った。7月には古傷の左膝を手術したことで、この年は1試合もピッチに立てない不運に見舞われたのだ。
田北の心中は分からない。だが、ホルガー・オジェック監督から第一GKに使命され、リーグ戦30試合にナビスコカップ14試合、天皇杯4試合の全公式戦48試合にフル出場。4493分間ピッチに立った。
Jリーグが1シーズン制を試行したこの年、浦和は鹿島アントラーズにPK戦で敗れる第28節まで優勝争いに参戦。最終順位は6位ながら、失点はリーグ最少の31だった。
失点の少なさはGKの勲章でもあり、田北も鼻高々だ。「1試合につき1失点以下を目指したので、1点足りなかったけど30試合で31失点はうれしい。まあ、あの3人がいればこの数字も不思議じゃない」と言って、“浦和の赤い壁”と呼ばれたギド・ブッフバルト、ボリ、田口禎則による3バックに感謝した。
前年からの堅陣も見事だが、浦和駒場スタジアムに横浜フリューゲルスを迎えた11月9日のリーグ最終戦では、2万人近い観衆が物珍しい出来事を目撃することになる。
浦和は前半33分までにMFウーベ・バイン、FW岡野雅行がともにヘディングシュートを決めてリード。後半34分には、岡野の高速ドリブルがDF大嶽直人の反則を誘ってPKを獲得した。
浦和は最終戦までPKでの得点が3点しかなく、ブッフバルトが2点でMF広瀬治が1点。PK戦は4度で2勝2敗だった。キッカーは広瀬が4回とも先頭で、ブッフバルトか田口が2番手を務めた。
この試合でPKを手にした時、広瀬もブッフバルトも田口もピッチにいた。当然キッカーは広瀬と思っていたら、GKグローブをつけたままの田北がPKスポットに近づいてくるではないか。
「ヒロ(広瀬)さんからお前が行けと言われ、周りも蹴れ蹴れって催促するもんだから……。中学時代からPK戦になると蹴っていたので自信はありました。緊張?落ち着いていましたよ。(GKが)右に跳ぶのが分かったので、インフロントで逆サイドに蹴りました」
相手GKはこの年、初めて日本代表に招集された2年目の楢﨑正剛だった。
決まった瞬間、まず両手を掲げてガッツポーズをつくると、続いて小さく拳を握った。岡野や福永泰、堀孝史らが次々と抱きついて偉業を祝福する。
田北はGKの得点が初めてであることを後日知ったという。「うれしいことはうれしいけど……」と切り出した後の言葉が、浦和の弱さの本質を見事なまでにえぐり取っていた。
1994年9月3日の、これも横浜フリューゲルス戦だ。後半44分にPKを呼び込んだが、キッカーに名乗りを上げる者はいない。「みんな下を向いていたので私が蹴った」と加入したばかりのブッフバルトが決めて勝った。
田北はこう言ってチームに渇を食らわせた。「俺に蹴らせてくれって勇敢で威勢のいい選手がいないのが残念。GKが決めているようではまだまだです。このあたりを強くしないと優勝は難しいと思う」。ポーカーフェースで口数の少ない男が放った金言名句だった。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。




















