2戦連続退場「冗談じゃない。納得できない」 悪役を変えた邂逅…名将が見抜いた素質

浦和の田口禎則「人間として成長できたと思うし、人生観も変わりましたね」
Jリーグの前身、日本サッカーリーグ(JSL)でプレーしていた往時から、DF田口禎則には“悪役”のイメージが付いて回った。審判突き飛ばしにラフプレー、度重なる警告と退場……。しかし浦和レッズに移籍して2年目の1995年、ドイツ人監督の着任とともに反則をしない屈強なストッパーに生まれ変わり、チームの大躍進にひと役買った。(取材・文=河野 正)
JSLの全日空在籍時の1991年10月16日、第2回コニカ・カップチャレンジ92選手権の予選リーグ、A組第4節の読売クラブ戦でPKとオフサイドの2つの判定に猛抗議し、2度も審判を突き飛ばしてしまった。日本協会から1年間の出場停止処分という制裁を受けたが、後に7か月に短縮された。
サンフレッチェ広島から1994年、故郷の人気クラブである浦和へ完全移籍。「自分は浦和に育ててもらった男だから、レッズの一員になれてうれしい。横山さんには感謝したい」と地元で功成り名を遂げようと心を弾ませたものだ。田口は浦和南高校2年のとき、第61回全国高校選手権でベスト8入りしている。
横山さんというのはこの年、浦和の指揮を執った横山謙三監督のことで、田口は横山監督が日本代表を率いた1991年6月のキリンカップで初めて日本代表に呼んでもらった。日本はキリン杯のトットナム・ホットスパー(イングランド)戦に完勝し、国際大会で初優勝。田口はこの国際Cマッチに途中出場した。
Jリーグが始まった1993年の浦和というのは、リーグ戦36試合で最多の78失点。横山監督は就任会見で「このチームはストッパーに大きな問題を抱えている。補強による守備の改善が緊急課題だ」として田口と曺貴裁を獲得する。
ところが田口は士気が空回りしたのか、横浜マリノスとの開幕戦ではラモン・ディアスの独走を後方から止めて後半34分に一発退場。出場停止明けのジェフユナイテッド市原との第3節でも、前半32分に城彰二の突破に背後から足を出して2度目の警告で退場となり、あおむけになって顔を覆った。
私は他の選手より田口に話を聞きたかった。記者は誰もいなかった。
「ファウルはファウルだけど危険じゃないでしょ。あれでカードを出されたんじゃたまらない。チームに迷惑を掛けたのは申し訳ないけど、あれで警告2回ではたまらない。冗談じゃない。納得できない。僕が何か言うと悪者になるから、もうこれで勘弁して」
退場が2試合続いたにもかかわらず、横山監督は先発での起用を継続した。前期は22試合のうち出場停止の4試合を除く18試合に先発。警告が5度で退場が2度だった。
だが後期に入ると、警告は11試合で2度に減って退場はなし。そうして2年目の1995年、ホルガー・オジェック監督により田口は正統派のストッパーへ新生した。
開幕を1週間後に控えた3月12日、浦和は沖縄県総合運動公園陸上競技場で前年の広島アジア大会で初優勝を飾ったウズベキスタン代表と国際親善試合を行い、3-0で快勝した。
ウズベキスタンは名手のMFコシモフやエースFWアブドゥライモフら、7人の優勝メンバーが先発。しかし右から池田太、元西ドイツ代表のギド・ブッフバルト、田口で編成した3バックは相手にほとんど決定機を与えなかった。
盤石な内容に「とても安定感があった」とオジェック監督は守備陣を褒めた後、記者が尋ねたわけでもないのに自ら声高にこう訴えた。
「みなさん、田口のプレーをご覧になっていただけましたね。ファウルをしないで敵ボールを奪い取る、正当な守備をしていた。田口は変わった。今までとは違う。彼に対する悪いイメージを捨ててほしい」
田口とはどんな選手、人間なのかクラブから説明を受けていた監督は、反則や無鉄砲な行動をしなければリーグ屈指のセンターバックになる素材だと見抜いていた。退任した翌年、家族でドイツに帰国する前夜、私は夕食の席でオジェック監督からいろんな話を聞いた。
空中戦とフィジカルの強さ、身体能力の高さは半端でない。何しろ高校時代、膝を半分曲げた体勢からジャンプヘッドの特訓を果てしなく続けた。しかも練習場所は砂場だ。
田口は古巣・横浜フリューゲルスとの開幕戦から左ストッパーとして先発に名を連ね、前期は26試合のうち25試合に先発。警告は2度。第16節の名古屋グランパス戦で延長前半3分に一発退場したのだが、何とも気の毒な判定だった。
ドリブルで運ぶ田口のユニホームをストイコビッチに引っ張られ、その手を払いのけたら「乱暴行為」とみなされたのだ。
こんな不運な出来事があったとはいえ、指揮官の言葉に偽りはなし。ダーティーな印象が強かった田口は、オジェック監督の指導と金言のおかげで正攻法のDFへと脱皮する。
どんなことを教わったのか? 田口は「難しいことは何もありません。正しいポジショニングと的確なカバーリングですね。これをしっかり実行すれば反則なしでボールを奪えると口酸っぱく言われました」というのが31年前の解説だ。
浦和は前期、クラブ史上最高の3位に大躍進。田口、ブッフバルト、曺によって“ざる守備”が改善され、広島に次いで少ない34失点の堅陣を形成したのだった。
ところが後期も開幕から11試合続けて先発していたが、その第11節の晩にサポーターとの不祥事を起こし、翌年1月まで出場停止処分を科された。田口は謹慎期間中、埼玉県内のリハビリ施設や介護施設などでボランティア活動に励み、再起への時機到来を待った。
謹慎が解けた1996年、Jリーグは初めて1シーズン制をテストした。田口はブッフバルトに加え、新加入の元フランス代表バジール・ボリとともに“赤い壁”と呼ばれた堅ろうを築き、失点は30試合でリーグ最少の31。リーグ戦24試合に出場し、ストッパーという役回りを担いながら警告が2度で、退場も出場停止もなし。この数字こそ、1996年に再度復活した田口の姿を端的に表している。
「オジェックとの出会いは本当に幸運だった。一緒にやった2年間は選手として人間として成長できたと思うし、人生観も変わりましたね」
邂逅が人の一生を左右するのはよくあることだが、もう少し早く出会っていたなら日本代表の国際Aマッチを経験できたかもしれない。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。





















