ロッカーで涙「体がどうも重く」 18歳でW杯出場も…帰国後の試練「いい気になっていた」

小野伸二は1998年のフランス大会、18歳8か月30日でピッチに立った
ワールドカップ(W杯)に最年少出場した日本人選手は、1998年のフランス大会でジャマイカとの1次リーグ最終戦のピッチに立ったMF小野伸二だ。18歳8か月30日の記録は、2022年のカタール大会まで破られていない。高校を出たばかりの偉才は、このW杯と直後のJリーグで味わった試練を経てさらなる変貌を遂げていく。(取材・文=河野 正)
【PR】ABEMA de DAZN、2/6開幕『明治安田Jリーグ百年構想リーグ』全試合生配信!毎節厳選6試合は無料!
1999年の世界ユース選手権で準優勝という快挙を成し遂げたU-20日本代表の陣容には、後に日本代表や所属クラブでも主軸として活躍する才能豊かな人材が大勢いた。
メンバーの大半が高校卒業後の1998年にJリーガーになったが、その多くが複数のJリーグクラブから獲得の申し出を受けていた。浦和レッズが声を掛けたのが清水商・小野伸二、大船渡・小笠原満男、帝京・中田浩二、東福岡・本山雅志の4人。加入候補の最上位に位置付け、獲得に向けてスカウトとゼネラルマネジャーが粉骨砕身した。
なかでも小野は“黄金世代”と呼ばれた同学年のなかでも抜きん出た存在で、すべてのクラブが加入を熱望する逸材だった。
静岡県出身の小野は清水エスパルス入りが有力とのうわさが流れた。というのも発足当初の運営会社、エスラップ・コミュニケーションズが1997年に経営破たんし、ホームゲームの入場者も約2万人を動員した1993~95年の半数まで落ち込んでいた。クラブ存亡の窮地に立たされ、経営と人気を好転させるには何としても小野が必要となり、宮城島弘正・清水市長までが獲得に首を突っ込んだほどだ。
しかし小野は浦和を選んだ。これを知った小笠原は、ポジションがかぶることもあって浦和に断りを入れ、中田、本山とともに鹿島アントラーズの一員となる。
小野は、日本代表の岡田武史監督が視察に訪れたジェフユナイテッド市原との開幕戦にトップ下で先発。この6日後、W杯日韓共催記念試合の日本代表に初招集されると、4月1日の韓国戦の後半20分から登場し、日本代表デビューを果たした。
5月7日には「強じんな海外チームを相手にしたとき、小野のワンタッチプレーが生きる」(岡田監督)との理由で、W杯フランス大会の予備登録メンバー25人に選ばれる。6月2日に発表された22人の登録メンバーにも最年少で名を連ね、フランス行きを実現させた。
日本はW杯1次リーグ初戦でアルゼンチンに0-1、続くクロアチアにも0-1で連敗し、決勝トーナメント進出を逃してしまう。ここまで小野に出番はなかった。「中学1年でU-16日本代表に入ったとき、控えに回ったことはあったけど、これだけ試合に出ていないのは初めて」と悔しがった。
だが1-2で屈したジャマイカとの最終戦で後半34分に送り込まれると、18歳が大舞台で試みる芸当ではないが、ファーストタッチで相手の股間をくぐらせるパスを通したのだ。ロスタイムには呂比須ワグナーにスルーパスを届け、決定打につなげている。
試合後、「少ない時間のなかでも自分のできることはすべてやった。プレー時間が短かったので、世界に通用するかは分からなかったが、フランスでは忍耐を学んだ」と言った。
ただ翌日になると当地での体験をさらに冷静に振り返り、「18歳でワールドカップのピッチに立てたのはうれしいけど、11分の出場では(特別なことを)やれるものではない。やれることをもっとやりたかった。すごく長い大会で、我慢ばかりしていた気がする。自分のなかではすっきりした気分ではない」との所感を述べた。
最年少ではやむなし、という思いは微塵もなく歯がゆさばかりが残るW杯だった。
7月25日にJリーグ第1ステージが再開。小野は名古屋グランパス戦にトップ下で先発し、前半に2本のダイレクトシュートを放った。しかし右足首ねんざで後半31分に交代。次節のベルマーレ平塚戦は加入後、初めて帯同メンバーから外れた。原博実監督は「走ると痛がった。万全でなければ使いたくないが、ワールドカップが終わってから少し体調を崩している」と気を揉んだ。
次のジュビロ磐田戦は、プロになって初めて地元静岡県での試合だった。背番号28はいつものようにトップ下で先発したが、ボールを要求する強欲が足りず、パスを預かっても迷いがあるような様子で周りをキョロキョロ見渡していた。
好調時の小野はパスを受ける前からターゲットを定め、ワンタッチで配給するのが本来の姿だ。ボールに絡む回数が貧困で、シュートも前半40分に狙ったFKだけだ。初めて前半で交代させられたのが、この磐田戦だった。原監督は「良くないねえ。痛みはないが、厳しくマークされると怖がっちゃうんだよ」と首をかしげた。
前日練習の後、小野は「帰国してから体がどうも重く、イメージ通りのプレーができないんですよ」と明かしていた。小野は記者の前になかなか現れなかった。自分に腹が立ち悔しくて悔しくて、ひとしきりドレッシングルームで泣いていたからだ。
「誰が見ても納得のいくプレーじゃなかった。18歳でワールドカップに出て、知らず知らずのうちにいい気になっていたのかもしれない」
W杯で未練を残し、Jリーグで無念を味わったが、世界で一番うまくなりたいという強い信念で苦難を打ち砕いた。とにかく合点がいくまで練習に没頭した。「駄目だったプレーを整える作業を繰り返していくうちに、思い描いた通りの動きが戻ってきました」と笑った。
磐田戦直後のヴェルディ川崎戦では、初のヘディングシュートを決めた。本人が「気分が吹っ切れた」と言えば、指揮官は「一番うれしいのは、いろいろ言われた伸二が得点したことだ」と大喜びする。
第2ステージは、U-19日本代表主将として臨んだアジアユース選手権に参陣したため、11試合の出場ながら6点を奪った。
10月のJOMOカップはファン投票1位で選出され、準優勝したアジアユース選手権では最優秀選手賞に輝いた。浦和では福田正博以来2人目、アジア・サッカー連盟の月間最優秀選手(10月)にも選ばれた。Jリーグ年間表彰式で新人王とベストイレブンを受賞し、激動の1998年を締めくくった。
「来年はもっとワンタッチプレーに磨きをかけ、ひらめきがたくさん生まれるプレーをしたいですね」
艱難辛苦を乗り越えたからこそ、天才ミッドフィールダーの前途は開けた。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

















