アキレス腱断裂で「母も一緒に泣いた」 逸材を襲った悲劇…救われた元日本代表の言葉

岡山の河野孝汰「山瀬さんの行動をこの目で見ていたんで、説得力がすごくあった」
2026年、J2レノファ山口のアカデミーで育ったFW河野孝汰がJ1ファジアーノ岡山へ移籍して新たなスタートを切る。河野と同い年の2003年(平成15年)生まれは、留年、休学、浪人などで修業年数が異なる場合や早生まれを除くと、この3月に4年制大学を卒業して4月から新社会人。いわばルーキーだが、河野はもうすでにプロサッカー選手として5年半のキャリアを積んでおり、そのキャリアは波乱万丈だった。(取材・文=寺田弘幸/全3回の2回目)
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転勤族だった父の影響で幼少期を広島県尾道市で過ごし、5つ上の兄の影響でサッカーボールを蹴り始めた河野は、すぐに頭角を現した。その後も父の転勤によってチームを替わることになったが、中国地方でレベルの高いボアソルテ美都FCやレオーネ山口に所属した。いずれも前所属のチームの紹介によるものだったと言うから、河野の才能に指導者たちは早くから気づいていたのだろう。
「幼稚園の年少のときに尾道でサッカーを始めて、小3で山口の萩市に転勤になったんですけど、そのときに尾道のチームが島根にあるレベルの高いチームを紹介してくれて、それで1時間くらいかけて通っていました。そしたらまた父が山口の下松市に転勤になったんですけど、そろそろ定住したほうがいいとなって実家のある周南市に家を建てることになったんです。そしたら島根のチームの紹介でレオーネ山口に入らせてもらえることになって、すぐにそのチームがレノファのアカデミーに替わるタイミングで、レノファのアカデミーに入る形になったんです」
2015年、小学生だった河野がオレンジのユニフォームを着ることになったとき、レノファはJ3へ参入した。晴れてJクラブになると前年に就任した上野展裕監督が指揮するチームは快進撃を続け、J3優勝&J2昇格を成し遂げる。河野は強いトップチームに魅せられた。
「中1のときはもうプロがリアルな夢でしたし、トップチームの試合を見に行くのがすごく面白かったんです。正直に言うと、山口県には高川学園という有名な高校があって、兄は広島皆実高校に行ったんで、僕も高校サッカーでやりたい気持ちもあったんです。実際に高川学園の練習に参加したこともあります。でも、やっぱりレノファのトップチームでデビューしたくて、レノファのユースに進むことにしたんです」
プロになるため山口U-18へ進んだ河野は1年生から10番を付けてプレーし、すぐにデビューするチャンスをつかんだ。もう6年以上の月日が経っているが、河野は昨日のことのように当時のことを覚えているという。
「高1の夏に2種登録してもらって、ユースのみんながボールパーソンをしていたホーム最終戦でデビューすることになったんですけど、うれしかったですね。試合では本当に何もできなかったですけど(笑)。あのホーム最終戦の前に練習試合があったんですけど、アップ中に(工藤)壮人さんが怪我をして急きょ僕がスタメンで出ることになって、その試合でハットトリックをしてホーム最終戦のメンバーにも選ばれたんです。今もあのハットトリックのことはよく覚えています。
壮人さんはめちゃくちゃ有名な選手でしたし、すごく印象に残っている選手の1人です。自分が練習で中途半端なプレーしていたらめっちゃ強く言ってくれた。ピッチ外ではめちゃくちゃ優しいのに、ピッチに入ると人が変わってプロとしてあるべき姿を示してくれた方でした。その年は宮代(大聖)さんもレノファにいたんですけど、うまかったです。これまで一緒にやってきた選手の中でも宮代さんのシュートは別格です。モノが違いました」
16歳になったばかりのFWは刺激的な日々を過ごしながらJデビューの夢を叶え、翌年の2020年には16歳11か月17日でJ初得点マーク。当時のJ2最年少得点記録を更新して、高2の夏にプロ契約を結んだ。
誰もが河野の未来が前途洋洋だと思っていた。2021年は途中出場が多いながらも試合に絡み続け、9月に入ると得点を挙げて苦しい戦いが続いたチームの希望の光となった。そんなとき、練習中に悲劇が襲う。河野はアキレス腱を断裂した。
「最初は何が起こったか分からなかった。スプリントのトレーニング中にいきなりバゴーンっていう音がして、後ろを振り向いたら(菊地)光将さんに真顔で『お前立つな。変な音がしたぞ』って言われて、光将さんの顔を見てこれはヤバいなと思ったら、それから痛みも感じるようになってギャン泣きでした」
感情を整理する時間もないまま、すぐに次の日には手術が行われた。誰とも話したくない。そんな思いにもなったとき、心の支えになってくれたのは家族だった。
「先輩方もすごく気にかけてくださってうれしかったですけど、やっぱり一番近くで支えてくれた家族の存在が大きかったです。母は僕と一緒に泣いてくれて、父は『絶対に夢は逃げないから』と言ってくれて、そう信じてくれる人たちのためにも頑張ろうと思えるようになって、リハビリにも向き合えるようになっていきました」
2022年10月、河野は怪我をして1年後にピッチに戻ってきた。そうして2023年は34試合に出場して5得点を挙げ、2024年は志垣良監督の下で勇躍するチームをキャプテンとしてけん引した。そのとき、再び悲劇が起こる。試合中に接触プレーをして膝を負傷し、左膝前十字靭帯断裂、内側側副靭帯損傷、外側半月板断裂で全治は約8か月と発表された。
「膝の怪我をしたときは、本当にどこに感情をぶつけたらいいのかという感じで。チームも良いところに付けていて、今が正念場っていう時期だったし、自分としてもキャリアハイの8得点を決めてきてこれから2桁を取りたいっていうところだったんで、何で今なんだよって」
育成年代の頃から大事なときに怪我をしてきた経験がある。そんな自分の運命を呪いたくなったことも1度や2度じゃない。でも、河野は数多の試練を乗り越えてきた選手の言葉を聞き、立ち上がった。
「山瀬(功治)さんに『怪我があったから良かったね』と言えるようにこれからの行動を変えていけたらいいんじゃないかって声をかけてもらったんです。あれは響きました。何回も膝の怪我をしながら40歳過ぎまで選手をやってこられた方の言葉ですし、実際に山瀬さんの行動をこの目で見ていたんで、説得力がすごくあったんです」
今、河野は怪我をしたから培えたこともあると言う。
「忍耐強くなりましたよ。2回の怪我は半年以上のリハビリが必要で、毎日しぶとく同じメニューをこなしながら、ちょっとずつを積み上げていかないといけなかった。一気にグンと良くなることはないんで、やるべきことを自分のなかで整理して今できる精一杯を毎日コツコツと積み上げていく。そのことの大事さを僕は人の3倍くらい分かっていると思います」
まだ22歳とは思えないほどの説得力が、河野の言葉にはあった。
(寺田弘幸 / Hiroyuki Terada)

寺田弘幸
てらだ・ひろゆき/1980年生まれ、広島県出身。サポーターを経て2007年よりライター活動を開始。サッカー専門新聞『EL GORAZO』でサンフレッチェ広島を追いかけ、3度のリーグ優勝に立ち会った。09年からファジアーノ岡山も担当。現在もフリーライターとして主にサンフレッチェ広島とファジアーノ岡山を取材している。





















