「もう市川は終わった」 25歳で引退も覚悟…“向き合い方”を変えて切り拓いた新たなサッカー人生

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:市川大祐(清水エスパルス・トランジションコーチ)第5回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。日韓W杯出場という目標を達成し、活躍を見せた市川大祐だが、以降は怪我との戦いが続いた。現役時代の終盤はさまざまなカテゴリーのチームを渡り歩き、引退後に清水エスパルスへと帰還。トップチームとアカデミーの“橋渡し”を託されるなかで、日々追い求めているものとは。(取材・文=二宮寿朗/全5回の5回目)
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22歳で日韓W杯を経験した市川大祐は、飛躍のサイクルに入ると思われた。視線を4年後のドイツW杯に向け、これまでと変わらず清水エスパルスでの日常から意識を高く引き上げてきた。
しかしながら――。
翌2003年の春季キャンプ中、シュートブロックをした際に右膝半月板損傷の大怪我を負い、手術に踏み切った。怪我との長い戦いの始まりであった。
「そんなに強いシュートブロックでもなかったんです。あのくらいの衝撃で痛めるなら、おそらく半月板に(怪我の兆候が)ちょっとあったんじゃないかなって。(復帰してからも)やれない痛みではないにしても、思い切りプレーができない状況でした。自分の求めているものとのギャップがとにかく苦しかったですね」
同じ箇所を再び痛めて秋に再手術に踏み切るも、劇的に改善したわけではなかった。2004年シーズンは左膝半月板損傷にも見舞われ、リーグ戦の出場はわずか3試合にとどまる。
外からは「もう市川は終わった」との声も聞こえてきた。何とかしたいけど、どうにもならないもどかしさ。無理をすればするほど怪我の連鎖を招くだけであった。
市川は覚悟を決めた。
「もし2005年のシーズンがダメだったら、もうサッカーをやめるしかない。こんな状況でやれるほど甘い世界じゃない」
勝負の年と決めるとともに、「向き合い方」を180度変えることにしたという。
「それまでは『ギャップを埋めよう』とばかり考えてしまうので、埋められない現実を突きつけられるだけ。だったら回り道でいいからと、違う道を探してみようと。階段を一段一段登っていって、『今日はこの一段を登れて良かった』とできたことを自分で最大限に評価してあげようって思うようになりました。
たとえばボールを奪いに行く時に足を出すのがやっぱり怖い。どうにかしなきゃと自分を追い込むのではなく、『ボールを奪いに行きたいと思えた、足を出したいと思えた』という心の変化だけでも前進しているんだと思うようにしました。周りから見たら足を出していないので変化が見えませんけど、僕の中では『ここまでやれた。いいぞ、いいぞ』って。常に自分と対話していたし、薄皮を一枚一枚、慎重に重ねていくような日々でした」
この年、監督に就任したクラブOBの長谷川健太の下、34試合すべて先発出場を果たす。膝の不安が消えないなか理想のプレーを追い求めるのではなく、今自分がやれることに対して最大限に集中した。若いながら経験は豊富。培ったキャリアから生まれるプレーには安心感があった。残留争いを経験するも天皇杯では決勝に進出。浦和レッズに敗れて準優勝に終わったが、市川はゴールを挙げている。
下部カテゴリーでは「学ばされることのほうが多かった」
2006年のエスパルスは4位と躍進し、強さを取り戻すチームと重なって市川も膝痛を抱えながらも復調気配を高めていく。ドイツW杯行きの目標には届かなかったものの、一度引退まで覚悟していたことを考えれば一歩ずつ階段を登れていくことに納得はできていた。
しかしながら膝の状態が完全に戻ることはなかった。2010年には再び右膝の半月板を損傷。復帰後は出場を続けながらも30歳を迎えたそのシーズン限りで契約満了となった。
ガムシャラに理想を追い求めていたかつての市川なら、ショックに打ちひしがれていたに違いない。「一歩ずつ」のギャップを埋めないマインドに切り替わってからは、現実を冷静に受け止める自分がいた。
膝がいつまで持つかは分からない。ヴァンフォーレ甲府、J2水戸ホーリーホックで1年ずつプレーした後は当時JFLの藤枝MYFC、四国リーグのFC今治、そしてJFLのヴァンラーレ八戸と下部のリーグを渡り歩いている。
「JFLを4部相当、地域リーグを5部相当とするなら、J3を含めてあらゆるカテゴリーでプレーできたことは僕にとって大きな財産になりました。(下部になると)環境はJ1と全然違って整っていない。でも地域リーグだから、これくらいの準備でいいだろうなんて思ったらサッカーをやめなきゃいけない時だと思っていました。たとえカテゴリーが下がっても、今までと同じように準備をして、試合前には同じように緊張していました。お客さんの数は確かに全然違うかもしれないけど、試合に対する臨み方が変わらないから『自分はまだサッカーをやっていいんだ』とジャッジしていたところはあります。別に下のカテゴリーだろうが、そのクラブに求められてプレーできることはすごく幸せでしたね。カテゴリーが変わるからといってサッカーが変わるわけじゃないですから。
それに(下部では)サッカーをするために仕事をしながらプレーしている選手が少なくなかった。自分がいろいろと経験を伝えていくことをやっていこうと思っていましたけど、彼らと一緒に過ごして逆に教えられたこと、学ばされることのほうが多かったです」
どんな環境であっても、サッカーに変わりはない。そこにいる選手たちと、応援するファン、サポーターたちと一体となって試合ができる喜びがあった。そして一本の道を通していくクロスに、とことんこだわった。
膝の状態が限界になるまでプレーを続け、八戸を最後に2016年限りで現役引退を決断した。1998年に17歳でJリーグデビューを果たしてから19年。怪我で苦しんだ時期のほうが長かったものの、己のサッカー人生を納得するまで走り切った。
「サッカーに夢中になれた」若き日に出会った指導者たちとの記憶
2017年からはエスパルスに指導者として復帰する。普及部コーチ、U-13監督、U-14監督、U-15監督、ジュニアユース三島U-13監督を経て、2023年から2年間、トップチームのコーチを務めた。そして今季からは、トップチームとアカデミーの融合を促進させていく新設の「トランジションコーチ」として活躍の場を広げている。
自分も育ったアカデミーの選手たちをどのように指導していきたいか?
そう問うとサッカーに真っ直ぐな人は、真っ直ぐな目線でこう応じた。
「振り返ってみても僕がトップで出るようになる時、(オズワルド・)アルディレスさんも(スティーブ・)ペリマンさんも大木(武)さんも、今のは良かったぞ、今のはこうだったぞって一つひとつのプレーを正しくジャッジしてくれていました。みなさんを信頼していたから、僕もサッカーに夢中になれた。(指導者との)信頼関係は大事だなって思います。だから毎日の練習が本当に楽しかった。シュート練習一つにしたって、打ったらすぐに列に並んで前の人の背中を触って『この人の次は僕』とやっていましたから。楽しくて仕方がなかったし、早く明日がこないかなって。そういう毎日でした。だから僕は、アカデミーの選手たちとさらに信頼関係を築いて、みんなをもっとサッカーに夢中にさせたいですね」
指導者になってもサッカーに夢中な市川大祐がいる。
アカデミーの選手たちからも、指導者として成長につながる大事なヒントを探して求めているかのように。
(文中敬称略)
■市川大祐 / Daisuke Ichikawa
1980年5月14日生まれ、静岡県出身。清水エスパルスユース所属時の1998年3月に17歳でJリーグデビューを果たし、1999年のJ1リーグ2ndステージ優勝、アジアカップウィナーズカップ1999-2000優勝に貢献。2010年の退団まで、チームの右サイドを支え続けた。日本代表には1998年に歴代最年少の17歳322日でデビュー。2002年の日韓W杯にも出場し、グループリーグ第3戦のチュニジア戦では中田英寿のゴールをアシストした。2016年の引退後は指導者に転身し、25年から清水エスパルスのトランジションコーチを務めている。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。













