スタンドまで響いた「ズドン」 釜本邦茂が見せた”夢”…長嶋茂雄と肩を並べる「不世出のストライカー」

かつて日本代表で活躍をした釜本邦茂さん(写真は日韓国会議員サッカー)【写真:産経新聞社】
かつて日本代表で活躍をした釜本邦茂さん(写真は日韓国会議員サッカー)【写真:産経新聞社】

釜本邦茂さんは日本代表最多75得点を記録

 日本サッカー史上最高のストライカー釜本邦茂さんが10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。1968年メキシコ五輪で日本代表を銅メダルに導き、日本リーグ、日本代表の得点記録を今も保持する点取り屋。Jリーグ・ガンバ大阪の監督を務め、政治家としても活躍した。「不世出のストライカー」を悼む。

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 「ズドン」という音が、国立競技場のスタンドまで聞こえたような気がした。小学生の頃に見た日本リーグ、メキシコ五輪後のサッカーブームで、三菱重工対ヤンマーの試合には多くの観客が集まっていた。自分は三菱ファンだったが「敵」の中でも釜本だけは特別。相手を粉砕する豪快なシュートは、魅力たっぷりだった。

 技巧派MFにスポットが当たるのは80年代の「キャプテン翼」以降。それまでサッカーの「主役」はセンターFWで、その代表が釜本さんだった。子ども心に「新宿の雑踏を逆行し、人波をすり抜けてフェイントを磨いた」の逸話に感動し、すぐに真似をした。サッカー少年にとっての「釜本」は、野球少年にとっての「長嶋」だった。

 記者になったのは、ペレも参戦した引退試合の直後。「釜本選手」の取材はできなかったが「釜本監督」や「釜本(参議院)議員」「釜本(日本協会)副会長」の話は聞くことができた。現役時代の凄さを知っているだけに緊張もしたが、今となっては貴重な財産でもある。

 歯に衣着せぬ発言のせいなのか、日本協会などサッカー界で要職を歴任したという感じはなかった。それでも、本音を隠さない話は面白く、興味深かった(原稿にできないことも多かったけれど)。現役時代のプレーと同じように、話もシンプルで鋭く、豪快だった。

「ドーンと構えてズバッと止めて、バッと打ちゃええんよ」。特に、ストライカーの話になると熱かった。「今の選手はいかん。髪の毛が長すぎる。あれじゃ、じゃまになってボールが見えん」。とんでもない角度から本気のダメ出しが飛んでくる。こちらの想定原稿など意味がなかった。予定調和など少しも考えず、豪快に放つ一発。さすが、世界のストライカーだと思った。

 メキシコ五輪後、欧州や南米のクラブからオファーが殺到した。代理人もいないために、窓口は日本協会。話が進まないうちに本人が体調を崩し、話は立ち消えになった。70年のW杯メキシコ大会出場も期待されていたが、点取り屋の離脱が響いて予選敗退した。

 もし、五輪後も釜本さんが元気だったら、海外移籍第1号として本場で活躍していたかもしれない。28年早く、日本のW杯初出場が実現していたかもしれない。日本サッカーの歴史は大きく変わっていたかもしれない。「そんなの分からんよ」と本人は笑っていたが、誰もが夢を見てしまうほど、その存在は大きかった。

 「不世出のストライカー」と呼ばれた釜本さん。「めったに世に出ることがない」という最上級の誉め言葉でもある「不世出」という言葉を知ったのも、釜本さんでだった。言葉通り、誰もが「釜本を超えるストライカーはいない」と口をそろえる。

 日本リーグ18年間で通算251試合出場202得点、日本代表として14年間プレーし国際Aマッチ76試合75得点。クラブチーム相手の試合を合わせれば233試合で154点を決めている。もちろん、いずれも圧倒的に他を引き離している。偉大な点取り屋の功績は日本サッカー史に記録として、記憶として、永遠に残る。忘れられることはない。

(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)



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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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