「ジョージ・ベストに匹敵」と称された才能 欧州移籍目前も…釜本邦茂さんを襲った“病魔”

わずか2か月で変貌したドイツ留学
神も羨む才能というものが、本当にあるのかもしれない。サッカー界どころか、日本スポーツ史上でも稀有な才能は、まるで神に嫉妬されたかのように、満開間近で残酷な試練を与えられた。
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1968年、23歳でメキシコ五輪の得点王に輝いた釜本邦茂は、そのまま日本人初のプロ選手として欧州へ羽ばたくことも出来た。
日本サッカーの父と呼ばれるデットマル・クラマーは、才能溢れる愛弟子にバイエルンの赤いユニフォームを着せて、同じくユース時代から天塩にかけたフランツ・ベッケンバウアーとコンビを組ませる構想を描いていた。
公称179㎝ながら実は180㎝を超える体躯を柔軟に操る。早稲田大学の同級生で後に日本代表でも一緒にプレーする大野毅によれば「高校時代から筋肉が出来上がり、大腿は異常に発達して割れていた。身体をぶつけると生ゴムのように跳ね返された」という。
そんな大器が、メキシコ五輪の年明けに2か月間ドイツへ留学した。サッカージャーナリストの嚆矢とも言える賀川浩は、橋渡しをしたクラマーに問いかけている。
「2か月間で本当に上手くなるのか?」
「まあ、帰って来た釜本を見てくれ」
釜本を預かったのは、後にドイツ代表監督を務めるユップ・デアバル。授けた助言は「いかにワントラップで思い通りの場所にボールを置き、素早くフィニッシュに持ち込むか」に集約された。一方で時間を持て余す釜本は連日映写室にこもり、当時では貴重な世界トッププレイヤーたちのプレーを見まくった。
そしてたった2か月間の留学で、釜本が急変貌を遂げたことは誰もが口を揃えている。日本代表のチームメイトだった小城得達は「ぞっとするほど足の振りが速くなった」と証言した。留学を終えた釜本は、日本代表のオーストラリア遠征に合流しているが、3連戦の初戦と最終戦でそれぞれ2ゴール。同国の専門誌では、こう絶賛された。
「誰も信用しないかもしれないが、ジェフ・ハースト、マーチン・ピータース、ジョージ・ベストに匹敵するストライカーが、アジアにいる」
ハーストは、その2年前のワールドカップ決勝でハットトリックを達成してイングランドを優勝に導き、ベストは言わずと知れたバロンドール受賞の大スターだった。
もしこのまま釜本がプロ契約を果たしていれば、日本で欧州シーンの映像を楽しめる時代も早まり、サッカー人気もさらに深く浸透していたかもしれない。実際釜本自身も「日本をワールドカップ出場に導いたら欧州に行くと決めていた」と語っている。
釜本さんを襲った“病魔”
ところがその大事なワールドカップ予選が迫るタイミングで、釜本を病魔が襲った。ウィルス性肝炎で療養だけでも半年以上を擁し、釜本不在の日本代表は敗退。日本のワールドカップ出場は30年近くも先送りになった。
「復帰したガマ(釜本)には、もう以前の鋭さはなくなっていたよ…」
クラマーは心底寂しげな面持ちで語った。大学同期の大野も無念そうに振り返る。
「メキシコ五輪前後の3年間くらいは、フィジカルも異常に上がって手が付けられなかった。でもその後のストライカーとしての凄みは、当時を100とすれば、せいぜい60〜70くらいだった」
それでも釜本は、ケタ外れの記録を次々に積み上げた。JSL(日本サッカーリーグ)では得点王が7度、アシスト王も3度。通算202ゴールは、2位(85ゴール)の倍以上。日本代表では75ゴールということになっているが、当時はAマッチが少なくて、数々の強豪クラブを倒した値千金のゴールや五輪の得点などは含まれていない。
やがてメキシコ五輪のメダリストたちが指導者に転身すると、晩年のクラマーにカツを入れられたそうである。
「私は釜本を発掘した。今では日本もこれだけサッカー人口が増えたのに、第二の釜本が出てこないのはおかしいじゃないか。キミたちの仕事は、どんな小さな島でも駆けずり回って第二の釜本を探して来ることだ」
引退した釜本は、ある時野球のイベントに参加した。現役高校生投手の3球目を捉えるとレフトスタンドへ運んでしまう。主宰する江藤慎一(セ・パ両リーグで首位打者)は「釜本さん、野球をやっていたら、王さん、長嶋さんクラスでしたよ」と目を丸くしたという。
まだサッカーが超マイナーだった日本で、これだけのエリートアスリートがバットを持たずにボールを蹴ってくれたのは本当に奇跡だった。今でもサッカー界には大谷翔平のような大器を待望する声が多いが、おそらく釜本の才能は大谷に匹敵し、この時代に生まれていれば世界中に名を轟かせていた可能性が高い。しかし裏返せば、アマチュアの低迷期に、あの一撃必殺の決定力で日本サッカーを支え続けてくれたからこそ、今があるのもまた確かである。(文中敬称略)

加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。




















