43歳で想定外のオファー→選手兼監督に迷いも「お断り」 決断した理由「不可能ですよ」

24年連続得点のJリーグタイ記録を樹立した山瀬功治、山口でキャリアを終えた
2000年にJリーグのコンサドーレ札幌でプロ選手となった山瀬功治氏は、J1とJ2の計8チームに在籍し、2024年をもって43歳で現役を退いた。日本代表としても13試合に出場し、25年も現役を続けただけに、“禍福はあざなえる縄のごとし”という言葉がぴったりのサッカー人生だった。24年連続得点のJリーグタイ記録を樹立した最終クラブ、レノファ山口までの来歴をつづった。(取材・文=河野正/全8回の7回目)
【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!
◇ ◇ ◇
札幌時代のチームメイトだった山口・名塚善寛監督とのちょっとした会話が幸運をもたらし、山瀬は2022年に通算8チーム目となる山口へ移籍した。背番号はアビスパ福岡、愛媛FC時代と同じ33番を付けた。
1年目の先発は15試合だったが、フィールド選手では7番目に多いリーグ戦34試合に出場。ブラウブリッツ秋田との第2節では早くも移籍後の初得点を挙げ、23年連続ゴールを達成する。
ボランチで先発。後半5分、アンカー佐藤謙介の縦パスをペナルティーエリアで預かると、左足で豪快な先制弾を突き刺した。2点目はボランチで先発した第14節のFC町田ゼルビア戦。前半追加タイム、FW沼田駿也が粘ってキープしたボールを受けてボックスに進入すると、左足で同点ゴールを蹴り込んだ。
1年目の秋に区切りの40歳を迎えた。「やることは愛媛時代から変わりません。自分が主役になるのではなく、周りに点を取ってもらうことを優先しチームの支えになることを考えました」。1年でも長くこの生業を続ける処世術に徹したのだ。
出場機会減も24年連続得点と記録
翌年になると出場数がぐっと減った。リーグ戦14試合(先発6)は、札幌での新人時代と右膝前十字靭帯を断裂したシーズンに並んで最少。7月15日の第26節から最終戦までの17試合中、16試合でベンチにも入れず出場時間は2分だった。
だがそんな状況のなかでも、しっかり24年連続得点を刻むのだから大したものだ。第5節のツエーゲン金沢戦で、後半アディショナルタイムにDF前貴之が倒されてPKを獲得。後半35分に送り出された山瀬がGKに反応されながらも、ゴール左隅にきっちり沈めた。これで遠藤保仁が持つ最長の“24年”に並んだ。
「連続ゴールは目標のひとつでもあったので、更新できてホッとしました。長くプレーできたことは勲章だと思う。好きで続けてきたサッカーですが、一定の評価がなければ試合に出続けることはできないので、自分のやってきたことが評価され、数字も残せてすごくうれしい」
だがこれが現役最後の得点。J1で58得点し、J2が37点でリーグ戦合計95点。天皇杯とナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)を足すと、通算117ゴールだった。
いよいよキャリアの最終シーズンが訪れた。開幕戦こそ帯同メンバーに入り後半43分から出場したが、第2節から第36節までベンチ入りが2度あっただけで出番はなし。11月3日、第37節の愛媛戦の後半43分からピッチに立ったのが最後の勇姿となった。
山瀬は「ここまで試合に絡めなかったのは初めての経験なので、(現役続行が)厳しくなったことは数字が教えてくれた」と“その時”が迫っているのを感じていた。まだやれそうと思う半面、フィジカル面での衰えは痛感せざるを得なかった。「強度の高い動きができなくなりました。持久力だけなら試合のデータを見ても走れているのですが、肝心のスプリント回数やトップスピードでの走行距離が落ちてしまった」と43歳という年齢を冷静に受け止めた。
「欲を言えばワールドカップやオリンピックにも出たかった」
晩秋にクラブから契約満了の通知があったが、もうひと踏ん張りの思いで新たな職場をリサーチ。Jリーグより下のカテゴリーだが、複数のクラブから移籍話を持ち掛けられた。年俸は二の次ながら、雇用条件で折り合わなかった。あるクラブからは選手兼監督を打診されている。
想定外のオファーに少しばかり興味を引かれたが、監督兼任は本意ではない。山瀬は「指導経験のない自分がやるとしたら、すべての力をそちらに向けないと不可能ですよ。そうなると選手としてのエネルギーを使えなくなり、現役を続けたいという根本の気持ちに反するのでお断りしたんです」と述べ、二足のわらじを履くことは筋が違うとした。
ギリギリのタイミングだったが、今年1月に代理人を通じて複数のクラブに働き掛けてもらい、吉報を待った。しかし獲得の申し出はなかった。1月31日に出処進退を決めることにした。だんだんXデーが近づいてくると、現役続行が難しいことを感じ始めた。31日が来た。引退する腹を固める日だ。
四半世紀もボールを追い掛けた。やれることは最大限やってきたので、悔いは少しもないと胸を張る。
「欲を言えばきりがないけど、もっとタイトルを取りたかったし、海外クラブでもプレーしたかった。ワールドカップやオリンピックにも出たかった……。僕より努力している選手は大勢いると思うし、自分も頑張ったけどまだまだ足りないものがあったから成し遂げられなかった。でもやり切ったという自負はある。心残りは一切ありません」
クラブは2月27日に引退を発表し、5月23日にはアンバサダー就任を明らかにした。クラブ・コミュニティ・コネクターという役職で、山口とファン・サポーター、パートナー企業、地域社会をつなぐクラブの顔として様々なシーンで活動する役回りだ。
山口でキャリアを終えたのは感慨深いという。
山瀬は「地域の人々はとても熱心だしクラブへの関心も高い。そんな環境のなかで戦い、街で会えば声を掛けてもらった。山口は市民クラブのような趣なので、サポーターとの密着度も高く、地域の人たちと交流できたことは貴重な体験。山口にはとても感謝している」とクラブの3年間の厚情に深謝した。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。





















