年末に鳴った1本の電話「監督をやってくれ」 社長→Jクラブ監督へ…元日本代表が歩む新キャリア

高知を率いる秋田豊監督【写真:元川悦子】
高知を率いる秋田豊監督【写真:元川悦子】

秋田豊監督はJ3の高知ユナイテッドSCで今季から監督を務める

 2025年Jリーグも開幕から3か月が経過し、全カテゴリーともに混沌とした状況となっている。J3に関しては、今季JFLから昇格したばかりの栃木シティが快進撃を見せており、FC大阪、テゲバジャーロ宮崎、ヴァンラーレ八戸といった資金規模の小さいクラブが上位を争うという意外な展開になっている。栃木シティとともに今季J3初参戦を果たした高知ユナイテッドSCも、一時は10位まで順位を上げるなど奮闘。5月に入って宮崎とカマタマーレ讃岐に連敗したことで下位に沈んだが、2024年の年間売上高が2億円程度の地方クラブにしては大健闘と言っていい。その新顔を率いるのが、98年フランス・2002年日韓ワールドカップ(W杯)に参戦した元日本代表DF秋田豊監督だ。(取材・文=元川悦子/全6回の1回目)

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 ご存知のとおり、秋田監督は鹿島アントラーズ時代に第1次黄金期を築き、名古屋グランパス、京都サンガでもプレー。2007年に現役を引退し、2008年から指導者に転身。2010年7~12月に京都で指揮を執ったのを皮切りに、2012~2013年に町田ゼルビア、2020~2022年にいわてグルージャ盛岡の3チームで監督を務め、2021年にはいわてのJ2初昇格のけん引役となった。

 この1年後の2022年10月、彼は突如として現場を離れ、いわての運営会社・株式会社いわてアスリートクラブの社長に就任した。このニュースはサッカー界全体を驚かせた。

 本人は「僕が社長と聞いてびっくりした人も多いかもしれませんが、会社経営が初めてだったわけではないんです。2017年にサンクト・ジャパンを立ち上げ、トレーニング用のゴムバンドの販売代理店経営をしていた経験があったので、それほど戸惑うことはありませんでした」と笑っていた。が、私財を投げ打って33.4%の株式を取得し、大胆なチャレンジに打って出るというのは、そう簡単な決断ではなかっただろう。

 2023~24年の2年間はキャンプの費用軽減を図ったり、フロント社員を18人から10人に減らすなど、削れるコストを次々と削減。そのうえで、ホームゲームの収益アップのためにコーヒーを除くドリンク販売を手掛けたり、いわぎんスタジアムメイン側のSSS席の年間シートを15万円で販売するといった施策を次々と実行に移した。さらには、自ら岩手県内の主要企業を訪ねてスポンサー営業に奔走。彼は彼なりに地縁血縁のない土地のクラブ作りに全力を注いでいたのだ。

いわて社長時代には「辛い思いもたくさん」 新たな視点で現場復帰

 ところが、その秋田監督が社長業を2024年末に退き、再び現場に戻るとは、果たして誰が想像しただろうか。しかも、赴いた先は岩手から遠く離れた四国の高知だ。この展開は本人も想像しなかったようだ。

「昨年限りでグルージャの社長を辞めることになり、保有していた全株式を売却して、拠点のある東京に戻るつもりでした。当面はサンクト・ジャパンの仕事に専念しようかなと考えていたんです。そんな自分のところにコンタクトをしてくれたのが、高知の山本(志穂美)社長でした。

 高知にはキャンプで何度か訪れたことがあり、山本社長とも前々から面識がありました。昨年12月のJ3・JFL入替戦でY.S.C.C.横浜に勝ってJ3初参入を決めたということで、『監督をやってくれないか』と言われました。電話をもらったのは12月17日で、本当に年末ギリギリ。その時点では監督探しも難しかったのかもしれませんけど、僕としては心が動きましたね」と秋田監督は偽らざる本音を打ち明ける。

 いわての社長時代には「現場には一区切りつけた」と語っていたが、経営トップとしてチームの戦いを見る立場になると、やはりどこかで歯がゆい気持ちもあったのだという。

「社長をやっていると現場に力を入れることができないし、どうしても金策に回ることが多くなってしまう。特に2024年のグルージャはJ3最下位に沈み、JFLに落ちていくところを直視しなければならなかった。辛い思いもたくさんしましたね。J3の社長はお金を持っていないと難しいということも実感しました。オーナー社長は資金力があれば、ある程度、やりたいことができると思いますけど、ほかのスポンサー企業や出資者に助けてもらうことになると、今度は経営面のバランスが崩れてしまいがち。

 自分が社長を務めた2年間でスポンサー収入も増えましたし、地元の理解も深まったとは思うし、達成感を覚えることもありましたけど、『また現場に戻りたい』という気持ちが湧いてきたのも事実ですね。でも、僕のような一度現場を離れた人間にオファーが来ることはないだろうとも感じていました。そんな時に山本社長から声をかけてもらえたのは本当にありがたいことでした」

 再び監督業に身を投じる決意を固め、秋田監督は慌ただしく引っ越しの準備をして、四国の地に赴いた。前述のとおり、高知には何度か足を踏み入れたことがあったが、他チームの選手・監督として行くのと、JFLから昇格したばかりのクラブを率いるのは全く別物。それも覚悟して、2025年1月から新たなキャリアをスタートさせたのである。(2に続く)

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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