“地球滅亡”で「2002年のW杯はないっす」 貞子に呪われ怒り…記者を感動させた久保竜彦【インタビュー】

久保という男が現代の日本に生まれ、サッカーをやったことそのものが奇跡
ジャンプして伸ばしたゴールキーパーの手よりも、さらに高いヘディングでの打点。ゴールまでの距離が30メートルでも40メートルでも、いけると思えば左足を振り、決めて見せるシュート力。圧巻のスピードと柔らかいドリブル。何をするか分からないアイディア。
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魅力を書き連ねればキリがないが、久保竜彦はまぎれもなく、日本サッカー史上の伝説である。しかも久保がトレセン制度などの「育成システム」で創られた才能ではなく、九州・福岡の自然の中から生まれたことも、ロマンティックだ。(取材・文=中野和也)
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彼がいかに、凄かったか。
例えば1996年6月26日、柏レイソルを率いていた名将・ニカノールは、ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)の広島戦(アウェー)後、こう語っている。
「今日の試合に出場していなかった選手について、あえて話をしたい。彼の名前は、久保竜彦。広島の選手です。ウチのホームゲームで彼は素晴らしいプレーを魅せた。今日はなぜか欠場したのですが(※練習中の負傷が要因)、彼が出ていれば我々はもっと苦しんだはず。日本のサッカーファンは、彼という存在を持ったことを幸せに思うでしょう。日本のサッカーにとって、宝石そのものです。財産です。これからも大切に育てていってほしいと思います」
試合後の記者会見で対戦相手の、しかも試合にも出ていない無名の若者について、これほどの賛辞を贈ったのは、先にも後にもこの時だけだ。
1998年途中からサンフレッチェ広島に加入した元日本代表FWの山口敏弘は、こう語った。
「柳沢敦や高原直泰といったFWもいるけれど、間違いなく(久保)タツがナンバーワンですよ。あいつを見ているとイメージがどんどん膨らんでくるし、代表でももちろんやれる」
当時、広島の指揮をとったエディ・トムソン監督のサッカーは5バック+2ボランチでガッツリと守り、前線の久保に向かって蹴って彼の個人技に託すやり方だった。ほぼ孤立無援の状況ながら彼は躍動し、3年連続2桁得点を記録。攻撃に人数をかけるヴァレリー・ニポムニシ監督が就任した2001年は、大木勉や藤本主税、スティーブ・コリカらのサポートを受けて15得点と爆発した。
そして横浜F・マリノスに移籍した2003年は16得点を挙げて両ステージ制覇という快挙の中心人物となった。特にシーズン最終節の11月29日のジュビロ磐田戦、後半アディショナルタイムにヘディングシュートを決めて優勝を導いたシーンは、歴史的だった。
「世界は久保竜彦を見て、驚くことになるだろう」
2006年のワールドカップを前にジーコが語った言葉は、彼の怪我によって現実とはならなかった。2004年以降は怪我が頻発し、才能を発揮できるコンディションでなくなったことは、彼にとっても日本にとっても、大きな損失。ただ、それでも1996年から2003年までの久保竜彦のパフォーマンスは圧倒的。アウェーのチェコ戦でペトル・チェフから強烈なゴールを奪った(2004年4月28日)ときのパフォーマンスを考えても、怪我さえなければジーコの言葉はきっと真実となり、ドイツワールドカップは全く違った結果となったに違いない。彼は当時、個人技で世界と戦える可能性をもった唯一の存在だったのだ。
素直さに対して感動を禁じ得なかった
久保竜彦のもう一つの個性は、その言動の楽しさである。ほかとは全く違う発想を持ち、純粋無垢で、義理堅く、そしておおらかだ。そういう彼に筆者が初めてインタビューしたのは1996年のこと。1時間くらいの取材だったが、ほぼ「はい」と「いいえ」ばかり。とはいえ、決して傲岸ではなく、質問に対して一生懸命に考えた結果の「はい」「いいえ」だった。朴訥とした九州弁とリーゼントヘアの若者は、慣れないインタビューに四苦八苦していた。
ニカノール監督が絶賛した柏戦について、聞いてみた。
「レイソル……、なんすかね……、黄色のユニフォームの?」
「そうそう」
「うーん、覚えてないっす。ただ、10番の外国人は巧かった」
「エジウソン?」
「なんか、そんな名前の」
これで終わり。話が広がらない。今ではなく未来のことを聞いてみた。
「2002年のワールドカップが日本で開催されるかもしれないし、その頃には代表でやっているかもしれないですね」
久保竜彦は真剣な表情で言った。
「いや、2002年のワールドカップはないっす」
「え?」
「1999年に地球は滅亡するらしいじゃないですか。俺、マジで心配で。どうすればいいかと思って、いろいろと対策を練るために本とかも読んでるし」
「……」
今度はこちらが絶句した。
1973年に発売された「ノストラダムスの大予言」という本は200万部を超える大ベストセラーとなった。そこに書かれてある「1999年7の月、恐怖の大王がおりてくる」という言葉が人類滅亡を示唆しているとして、日本中を戦慄させたことも事実だ。だが、1996年の段階でこの言葉を真に受ける人なんて、ほとんどいないと筆者は思っていた。しかし、久保竜彦は純粋に信じていたのである。その素直さに対して、感動を禁じ得なかった。
当時のことを、今の彼に聞いてみた。
「信じてましたね」
真剣な表情を崩さない。
「対策を立てていたと言っていたけれど」
「いつも空を見ていたし、クルマでトンネルに入るときも注意していました」
「な、なるほど」
「地球が滅亡すると思っていたから、好き勝手なことをやっていたのかも」
久保は超常現象を信じやすい。
1991年に発売された鈴木孝司氏の小説「リング」は、シリーズ累計800万部という大ベストセラーで1998年には映画で大ブームを巻き起こした。内容は「このビデオを見たものは7日間で死ぬ」という呪いを中心としたもので「貞子」と言えばピンとくる方も多いだろう。
1999年、広島のオーストラリアキャンプに参加した久保は、尊敬する先輩である大木勉に「リング」の文庫本を渡された。読み進めるうちに小説が描く恐怖の世界に戦慄し、他のビデオも見れなくなった。さらに本を読んだことで呪いがかかったと思い込んでしまい、「(大木)ベンさん、なんてことをしてくれたんだ」と怒ったという。
かつて彼を日本代表に引き上げたフィリップ・トルシエは、こんなことを言っていた。
「クボはきっと13世紀頃に生まれた男なんだ。それがずっと冷凍されて、ある日突然見つけられた。まだ現代文明のコミュニケーションに慣れていない男なんだよ(笑)」
大袈裟な例えではあるが、分からないこともない。久保竜彦という男が現代の日本に生まれ、サッカーをやったことそのものが奇跡だと言っていい。空前絶後の純粋さを持つ野生児の物語を、これからしばらくの間、書き記していこうと思う。
(中野和也 / Kazuya Nakano)