後輩からのビンタも許容? 中村俊輔は人一倍の努力家で後輩思い…元同僚が明かす“素顔”
【専門家の目|栗原勇蔵】日本復帰後の初アシストをつけてあげられたのは「僕の誇り」
元日本代表MF中村俊輔は、今季限りで26年におよぶプロキャリアにピリオドを打った。J1リーグ歴代最多となるフリーキック(FK)で24得点をマークするなど、精度の高い左足キックを武器に日本サッカー界の歴史に名を刻んだレジェンドについて、横浜F・マリノスと日本代表で共闘した元日本代表DF栗原勇蔵氏が振り返る。(取材・構成=FOOTBALL ZONE編集部)
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5歳年上の俊さんと最初にチームメイトになったのが、僕がF・マリノスに入団した2002年。俊さんが(当時イタリア1部の)レッジーナへ移籍するまでの半年間だけ一緒にやりました。自分は試合に絡めなかったルーキーで、かたや(2000年に)シーズンMVPも経験しているスーパースター。それでも、キャラの濃い先輩たちが多いなかで、後輩の面倒見が良くて、「お前、(うちに)泊まりに来いよ」と俊さんの家に招待してもらったこともあります。まあ、もう本人は覚えていなかったですけどね(笑)。
当時は僕もやんちゃキャラだったので、(2002年の)新入団選手の歓迎会でマツさん(故・松田直樹さん)から「俊輔を殴ってこい!」と言われたことがありました。「いやいや、無理です」と答えたんですけど、「俺と俊輔、どっちが偉いと思ってるんだ」と詰め寄られて、「それはマツさんです」と返すしかないですよね(苦笑)。みんなが見ている前で、ノリで引っぱたいてしまいましたが、それでも俊さんは「うわー」って合わせてくれて。「俺、とんでもないことしてるな」と自分でも思いました(笑)。
2003年8月、F・マリノス対レッジーナの親善試合で初めて俊さんと対戦しました。自分はそのゲームで鼻を折ってしまい、苦い思い出として焼き付いています。
俊さんがレッジーナ(イタリア)、セルティック(スコットランド)、エスパニョール(スペイン)とプレーして日本に戻ってきた2010年には、自分もルーキー時代とは異なり、F・マリノスでレギュラーを張るレベルまで成長していました。(2010年3月13日のJ1リーグ第2節)湘南ベルマーレ戦で(前半22分に)俊さんのコーナーキックからヘディングでチーム第1号ゴールを決めることができたのは、自分の誇りです。本当の意味でチームメイトになれたという思いがありましたね。
2013年のJ1リーグ最終節(川崎フロンターレ戦)、9年ぶりの優勝を逃して等々力競技場のピッチに崩れ落ちて、涙する姿は今でも鮮明に覚えています。あの年は、Jリーグに復帰以降コンディション面ではベストな状態で、チームを牽引して自身2度目のシーズンMVPも獲得しました。優勝を逃したショックで僕も呆然としていましたけど、俊さんの姿を見て、失ったものの大きさを改めて感じました。さまざま経験をしてきた人が崩れ落ちる、それほど一大事だった。俊さんは感情を表に出すタイプではないので、とてつもないものを背負っていたんだと象徴しているシーンだと思います。もしあの時に優勝していたら、引退は44歳よりもっと早かったのかもしれません。
栗原勇蔵
くりはら・ゆうぞう/1983年生まれ、神奈川県出身。横浜F・マリノスの下部組織で育ち、2002年にトップ昇格。元日本代表DF松田直樹、同DF中澤佑二の下でセンターバックとしての能力を磨くと、プロ5年目の06年から出場機会を増やし最終ラインに欠かせない選手へと成長した。日本代表としても活躍し、20試合3得点を記録。横浜FM一筋で18シーズンを過ごし、19年限りで現役を引退した。現在は横浜FMの「クラブシップ・キャプテン」として活動している。