日本代表と五輪世代の対決は“禁断のマッチメーク” 封印のきっかけとなった苦い記憶

戸塚の決勝点で読売が勝利、試合後は両チーム選手が憮然としたまま引き上げる

 冷静に客観視しても、読売有利は当然だった。日本代表は最終ラインを形成する4人のうち3人を相手に取られたのに、読売側にはブラジルから来た与那城ジョージ、ラモス瑠偉、トレド、さらにはパターソン、過去に代表を辞退した戸塚哲也など錚々たるメンバーが揃っていた。

 場所は東京・西が丘サッカー場(当時)。大方の予想通りに序盤から読売クラブがボールを支配した。都並が言う。

「代表のFWがプレッシャーをかけてきても、回せてしまうのが分かった。当時の読売は、プレスに対する逃げ方をいくつも持っていましたから」

 さらに日本代表の攻撃を操る木村和司にとって、読売のボランチ小見幸隆は天敵だった。

「和司や水沼(貴史)にルックアップをさせたら良い仕事をする。だからいいトラップをしたら行かない。でもミスを誘うプレスをかけて、実際にミスをしたら足もとへガツーンと行きました」

 ただし、そう語る小見もこの一戦で勝ってしまう後味の悪さは十分に想像できたので「試合前から、冗談で引き分けがいいな、なんて話していた」そうである。

 しかし後半33分、遂に均衡は破れた。与那城から縦パスを受けた戸塚は「角度もないし、入る確率も少ない」と思って放ったシュートが鮮やかにネットを揺する。これが決勝点となるのだが、試合を終えた選手たちは、勝者も敗者も憮然としたまま足早にロッカーへと引き上げた。

 森監督によれば「後日JFA内でも、やはりこういう試合を企画してはいけない、という意見が大半を占めた」そうである。

 ちなみに日本代表は、1980年12月14日、日本代表シニアという不可思議な名称の相手にも敗れている。当時代表を率いたのは川淵三郎。低迷極まる日本サッカーの再建を期して、大胆な若返りを図り平均21.5歳と現五輪代表候補より若いメンバーを招集した。新生代表はスペインW杯の1次予選を控え、中堅以上で外れた選手たちを集めたシニアと壮行試合を行い2-3だった。

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加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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