グラウンドに野球マウンド 水道で体洗う過酷環境からJ2へ…水戸のバンディエラが誓った命懸けの戦い

水戸GMに就任した本間幸司の現役時代を回顧
プロのキャリアをスタートさせたJリーグ浦和レッズでは公式戦出場が1度もなかったが、1999年4月に日本フットボールリーグ(JFL)の水戸ホーリーホックへ移籍した本間幸司は、クラブとJ2を代表する伝説のGKとなった。2024年まで水戸で現役を続け、今季ゼネラルマネジャーに就任。J2最多の577試合出場を達成したバンディエラの29年間を回想する。(取材・文=河野正/全5回の2回目)
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「クラブが保有する練習場はなく、あっちに行ったりこっちを使ったりで毎日違う所に通っていました。練習後にシャワーを浴びる施設なんてないので、屋外の水道で顔や頭、体を洗ったものです」
1993年から浦和に7シーズン在籍し、2001年から02年まで水戸で背番号10を付けてプレーした池田伸康から聞いた話だ。
1年限りで引退する腹積もりで浦和から水戸に移籍してきた本間は、練習場所が土のグラウンドで、おまけにゴール前に野球のマウンドがあるお粗末な環境にがく然とした。だがその一方で、ひたむきにボールを追い掛け、サッカーへの情熱をたぎらせるチームメートの貪欲な姿に頭の下がる思いだった。
「選手の多くがガソリンスタンドやカラオケ店、コンビニのお弁当づくりなどのアルバイトをしていました。時給が高いからといって夜中から明け方まで働き、朝9時からの練習に来ていたんですね。こんなんでサッカーができるのかよって思ったら、芝のピッチみたいに平気でスライディングするんですよ、ガンガンとね。サッカーに懸ける熱量は、レッズの選手よりすごいかもしれないと思わせる選手がたくさんいた。だから軽い気持ちで彼らと一緒にサッカーをやるのは、失礼だなって痛感しました」
クラブとプロ契約を交わしていたのは本間ともうひとりだけ。そのほかの選手はアルバイトをしながら生計を立てていたのだ。
ただ、そんな過酷な生活スタイルではトップパフォーマンスを発揮するのは難しい。練習前はしっかり睡眠と食事を取り、万全なコンディションで練習に臨もうと本間が提案し、朝方までの勤務を辞めて違う仕事に就いてもらった。
ジャパン・フットボールリーグを引き継ぐ形で日本フットボールリーグが発足した99年、水戸はクラブの存亡を懸けた背水の陣でJFLに臨んだ。ここで低迷し、J2昇格を逃していたら水戸が存続していたか分からなかったという。クラブ関係者から後日談として聞いた。
本間はそんな因果関係を知ろうが知るまいが、仲間の燃えたぎる意欲が大きな刺激となり、命を懸けて水戸で戦うことを練習初日に誓っている。
当時苦楽をともにしたのが、木山隆之(現・ファジアーノ岡山監督)や小原光城(現・FC東京ゼネラルマネジャー)、川澄和弘コーチ(現・流通経済大コーチ)らで、今でも師走が暮れかかった頃、毎年水戸に集まっては慰労会と近況報告会を開き、旧交を温めるそうだ。
本間は「水戸にきた時の自分は、1度は終わったようなものだったので、本当に仲間とチームに恵まれた。JFLを戦った1年というのは一生忘れられないし、当時の仲間は生涯の財産です」としみじみ語りかけた。
第1回JFLは9チームによって3回戦制で争われ、水戸は16勝(3試合で延長Vゴール勝ち)8敗で勝ち点45の3位。J2昇格条件は2位以内だったが、準会員の横浜FCが優勝したことで正会員としては水戸が2位という位置づけとなり、翌年のJ2昇格とあいなった。辛うじてクラブの存続が決まった。
本間はリーグ戦全24試合に出場し、失点は横浜FCと並ぶ最少の32だった。
「リーグのレベル自体がそれほど高くなかったので、シュートもある程度は止められましたね。浦和にいた時、元スペイン代表でバルセロナのドリームチームの一員だったベギリスタイン(愛称チキ)という選手がいたんです。チキはシュートがめちゃくちゃうまく、いつも逆を取られまくっていました。なんだよ、こいつはってくらい上手な選手と練習していたので、ゴールを守る自信のようなものはありました」
当時の水戸は専門のGKコーチを抱えておらず、現役時代はMFだった川澄コーチがGKコーチの代役を務めた。浦和での2年目もGKコーチは不在。原博実コーチが本間に付きっ切りでシュートを打ち込んでくれた。「栃木県出身の原さんが、『北関東同士だし、俺がしっかり教えてやる』と言ってお付き合いしてくれたんです。原さんのシュートはうまかったけど、なぜかいつもけんかばかりしていました」と笑いながら往時を振り返った。
J2昇格後はGK佐野友昭がコーチを兼務し、引退した翌年から07年まで水戸の専任GKコーチとして指導に当たった。
Jリーグの仲間入りをしたからといって、年俸がはね上がったわけでもないし、大きなスポンサーが加わったわけでもない。しかし本間はあの初練習の時、うなるほどのパワーを感じたチームメートとともに、J2に昇格できたことが何よりうれしかったのだ。
念願のJリーグ参戦を控えた心中について本間は、「やっぱりJFLとはレベルが全然違うので、厳しい戦いは覚悟の上でした。自信? Jは初挑戦でしたからね。自信と手応えは少しありましたが、いくら練習で調子が良くても試合になれば分かりません。どれだけやれるか、とことんチャレンジしたかった」と26年前を述懐した。
J2は11チームによる4回戦制という気の遠くなるような長丁場だ。同じチームと4度も戦うのだから、忍耐と根気も必要だ。
対戦カードが決まった。2000年3月11日の開幕戦は何と、浦和駒場スタジアムで古巣・浦和との顔合わせになった。(文中敬称略)
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

















