プロ入り→ノーチャンスで円形脱毛を発症 “縁”でつかんだチャンス…伝説GKが歩んだ29年間

水戸GMに就任した本間幸司の現役時代を回顧
プロのキャリアをスタートさせたJリーグ浦和レッズでは公式戦出場が1度もなかったが、1999年4月に日本フットボールリーグ(JFL)の水戸ホーリーホックへ移籍した本間幸司は、クラブとJ2を代表する伝説のGKとなった。2024年まで水戸で現役を続け、今季ゼネラルマネジャーに就任。J2最多の577試合出場を達成したバンディエラの29年間を回想する。(取材・文=河野正/全5回の1回目)
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水戸短大付属高(現・水戸啓明高)では1年生から守護神となり、早くも夏の全国高校総体に出場。全国高校選手権でも1、2年生でゴールマウスを守った。同年代を代表するGKとして脚光を浴び、ジュビロ磐田や名古屋グランパスなどJリーグの4チームから獲得の申し出があった。その中で、2年生の時に一番早く声を掛けてくれた磐田への加入がほぼ決まっていたのだが……。
しんがりで名乗りを上げた浦和から練習参加の要請があり、その場でオファーをもらった。その夜、対戦相手は忘れてしまったそうだが、浦和駒場スタジアムでの試合に招待されたことが、進路を翻意させた最大の理由となった。1995年秋の出来事である。
「いやあ、もうサポーターの熱量にはびっくりしました。これはすげーなって興奮し、このサポーターの前でプレーしたくなったんです。応援風景を見たのは1試合だけなのに、サポーターの存在が浦和に変えた決め手になりました」
かくして本間は、Jリーグが1シーズン制を試験的に導入した96年に加入したが、序列は5人いたGKの中で最下位。トップチームに帯同することはなく、2軍に当たるサテライトチームで腕を磨く日々がずっと続いた。
この年は田北雄気が公式戦全48試合にフル出場。横浜フリューゲルスとのリーグ最終戦では、GKによる初得点(PK)も決めた。「田北さんの絶頂期で、こりゃかなわないなって感じでした」と苦笑する。
2年目はGKが6人に増えてますます狭き門となり、右肩のけがと手術、左膝の断続的な痛みも重なり半年ほど練習を休んだ。
そんな時だ。“ゴッドハンド”の異名を持つ浦和の野崎信行アスレティックトレーナーが、体の使い方を根本から変えてくれた。
「膝や大腿部に疲れがたまる動き方だったので、このままでは長く現役でいられないと指摘されたんです。そこで足の裏側や肩甲骨、股関節を使いながらプレーすることを勧められ、筋肉や関節を連動させた動き方を習得していきました。野崎さんの教えを引退するまで追求したことが、29年も続けられた一番の要因。あの出会いは大きかった。恩人です」
これを長年、水戸のGKにも伝授しているそうだ。
“野人”こと親分肌の先輩、岡野雅行には大層かわいがってもらった。シーズン開幕前には、プロボクシング元WBA世界ジュニアウェルター級王者、平仲明信が沖縄・豊見城市で運営するジムでともに自主トレを行い、くたくたになるまで体をいじめ抜いたものだ。
こういう努力と工夫をしながらトップチーム昇格とJリーグデビューを夢見たが、加入から3年経っても試合には絡めなかった。98年にサテライトリーグで5試合に出場したが、4年目の99年4月6日にJFLの水戸へ完全移籍する。Jリーグ開幕1カ月後の移籍は珍しかった。
本間は天井を見つめながら、「GKってそう簡単にチャンスをつかめるポジションじゃないですよね。いくら頑張ってもトップチームに上がれないし、メンタルもやられてしまい、円形脱毛を発症したんです。サッカーはもういいや、やめようと悩み自暴自棄になっていた時期でした」と、もがき苦しんだ当時の心中を打ち明けた。
だがこれも奇縁か。浦和の横山謙三ゼネラルマネジャーから、水戸と柏レイソルのサテライトチームが練習試合をするので、見学に行くよう指示された。93、94年に浦和に在籍し、横山さんの指導も受けた二宮浩監督が水戸の指揮を執っていた。
思うに横山さんはあらかじめ二宮監督に連絡し、この練習試合を本間の加入テストにしてほしいと依頼していたのではないか。本人は忘却の彼方だが、「見学」といってもスパイクとGKグローブを持参させたものと推察する。GK出身の横山さんは本間の資質を見抜いていた上、面倒見がとても良かったことから、才能豊かなGKの将来を慮ったのだろう。
本間の言葉に力がこもった。「行ってみたら二宮さんが、『後半から出てみない』って言うんですね。『えっ、そんなのあり?』と思いましたが、出場すると、面白いサッカーをする水戸が勝っちゃったんです」と柔和な表情を浮かべて懐かしんだ。
すぐにオファーをもらった。地元茨城のクラブだし、1年だけプレーして引退しようかな、くらいの軽い気持ちで移籍を決断したそうだ。
「JFLが開幕する直前に水戸にきて、すぐにレギュラーで使ってもらいました。高校を出てからは初、久々の公式戦はすごく楽しかった」とピッチに立てる喜びをかみ締めたが、その半面、練習環境の劣悪さと過酷なチームメートの生活状態に言葉を失った。
自前の練習場はなく、いろいろなところを転々とする“ジプシー生活”だ。最初に練習したのは土のグラウンドで、ゴール前に野球のマウンドがあったのには衝撃を受けた。浦和時代は天然芝のピッチが2面、平屋建てで貧相だがクラブハウスも使えた。
「浦和では芝生のピッチで練習するのが当たり前だったので、『まじかよ?』って、そりゃびっくりしますよね」と本間はがく然とした。だが、サッカーにありったけの情熱とエネルギーを注ぎ込むチームメートの姿にひどく感心し、自分の考えの甘さが恥ずかしくなった。(文中敬称略)
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。


















