“神様”ジーコ来日の舞台裏「歴史的な転換点」 当時38歳も…鹿島が常勝軍団になった理由

ジーコがもたらした「世界基準」
1993年のJリーグ開幕を遡ること1年前、鹿島アントラーズの前身である住友金属は、世界中を驚かせるニュースを届けた。ブラジルの至宝、ジーコの加入である。当時、日本リーグ2部に所属していた地方の企業チームが、なぜ世界の一流を呼び寄せることができたのか。そして、彼がこの地に最初もたらした「世界基準」の正体は何だったのか。
【PR】ABEMA de DAZN、2/6開幕『明治安田Jリーグ百年構想リーグ』全試合生配信!毎節厳選6試合は無料!
「世界基準と言っても、当時の日本はまだアマチュアでした。ジーコが伝えたかったのは、技術以前の『プロとはなんぞや』という根本的な違いだったと思います」
鈴木満氏は、Jリーグ元年から強化の最前線に立ち続け、鹿島の黄金時代を築き上げた人物である。現在はフットボールアドバイザーとしてクラブを支える鈴木氏は、住友金属時代から現在に至るまで、鹿島が歩んできた激動の歴史をその身で体験してきた。
地方の弱小チームに過ぎなかったクラブが、なぜ名だたる名門を抑えて常勝軍団へと変貌を遂げたのか。多額の資金を投じれば強くなれるという単純な図式が通用しないフットボールの世界において、鹿島を真に強くしたのは一体何であったのか。その答えを探るためには、まず彼が目撃した「プロの夜明け」を紐解く必要がある。(取材・文=森雅史/全5回の1回目)
◇ ◇ ◇
ジーコが説いたプロの条件は、大きく分けて三つあった。一つはハード面、すなわちプロにふさわしい環境を作ることである。当時の住友金属の練習場は土のグラウンドで、表面はデコボコであった。更衣室さえ存在せず、体育館にあるようなスチール製のロッカーが並ぶだけの部屋で着替えるような環境から、すべてをプロ仕様に変える必要があった。
二つ目は組織である。プロの組織とは、監督以下の現場(ピッチ)だけを指すのではない。フロントの体制、人事、そしてクラブを支えるスタッフの一人ひとりがプロとして機能する組織体を作り上げることの重要性を、ジーコは説き続けた。そして三つ目が、サッカーを職業とする選手・スタッフとしての「あり方」、すなわち職業意識の徹底である。
「どれも揃ってはいませんでした。グラウンドは土で、日本リーグ2部という環境です。そこに、あのジーコがやってくる。常識で考えればあり得ない話でしたが、ジーコには『自分の経験を日本サッカーのために生かしてお手伝いをしたい』という純粋な思いがあった。開幕の1年前に来日したという事実に、その覚悟が現れています」
当時、読売クラブや日産自動車といった日本サッカー界の名門、あるいは豊富な資金力を持つクラブは他にも存在した。しかし、ジーコの代理人が日本サッカー協会に売り込んできた際、他のクラブは断ってしまった。当時38歳という年齢への懸念が、獲得を見送った理由の一つであった可能性は否定できない。そこで白羽の矢が立ったのが、オリジナル10への滑り込みを懸命に目指していた住友金属であった。
「ジーコにしてみれば、当時の日本のクラブ間の細かな実力差や、読売、日産、住金といった企業の力関係についての認識はほとんどなかったはずです。彼にとって重要だったのは、新しくプロリーグが発足する国で、自分の経験を役立てることそのものでした。一方、川淵さんはジーコという巨大な存在を獲ることで、リーグ全体のアドバルーンが必要だと考えていた。住金にとっては、それが幸運という言葉では片付けられないほどの、歴史的な転換点になりました」
Jリーグが産声を上げたとき、ヴェルディ川崎や横浜マリノスには華やかなスター選手がひしめき、競技面でも人気の面でも先行していた。しかし、鈴木氏は「スタートラインは横一線だった」と冷静に分析する。日本国内にプロのモデルケースが存在しない以上、誰もが手探りの状態で暗闇を歩んでいたからである。
「情報収集の手段が限られていた時代、僕らの目の前にはジーコという『先生』が直接指導してくれる環境があった。彼が示す明確な道しるべがあったからこそ、アントラーズは迷いなくスタートダッシュを決めることができた。その時の一歩が、その後の30年に繋がる最大のアドバンテージになったのではないかと考えています」
鹿島の成功を「ジーコという個人のカリスマ」に帰結させるのは容易である。しかし、その教えを組織の骨組みとしてどう咀嚼し、土のグラウンドから世界基準へと昇華させたのか。そのプロセスにこそ、鹿島が21冠という前人未到の記録を打ち立て、トップを走り続ける理由が潜んでいる。鈴木氏が語る「3つの土台」は、単なる精神論ではなかった。それは物理的な環境の整備と、組織の再定義から始まった、極めてロジカルで冷徹な改革の記録でもある。
ジーコが持ち込んだのは、ブラジル流の華麗なテクニックだけではない。むしろ彼が最初に着手したのは、デコボコな土を取り除き、そこに青々とした芝を植えることであった。そして、アマチュアの甘えを排し、サッカーを「職業」として全うする人間を育てることであった。その思想が、親会社がメルカリに変わった現在も、中田浩二フットボールダイレクターら次世代のスタッフによって「血」として受け継がれている。
当時の劣悪な環境を嘆くのではなく、そこから何を積み上げるか。その一点に集中した住友金属の決断が、のちの常勝軍団を生んだ。世界基準とは、完成された結果を指す言葉ではなく、不完全な現状をプロの基準へと引き上げようとする「終わりのない努力」の総称であったと言える。鹿島の歴史は、まさにその「問い」に対する、30年間に及ぶ回答の積み重ねなのである。
結局、鹿島を強くしたのは、単なる一人のスターの存在でも、潤沢な資金でもなかった。それは、目に見えない「基準」を妥協なく組織の隅々にまで浸透させ、それを伝統として継承し続けた「意志の力」であったと言える。他者が年齢や環境を理由に拒んだその種を、鹿島だけが血を流しながら育て上げた。その執念こそが、今日に至るまでの絶対的な強さの正体なのである。
(森雅史 / Masafumi Mori)

森 雅史
もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。





















