「やれないヤツは淘汰される」 エリート街道も…元日本代表が味わった絶望「見誤っていた」

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:鈴木隆行(UNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOL代表)第1回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。今回は、日本代表のストライカーとして活躍し、キャリアの中で様々な国を渡り歩いた鈴木隆行の若手時代にフォーカスする。常勝・鹿島アントラーズで体験した「驚愕」の日々は、その後の不屈のキャリアに繋がっていくものだった。(取材・文=二宮寿朗/全8回の1回目)
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鈴木隆行の生き方はどこか不器用で、どこか武骨で。
日韓ワールドカップで日本のファーストゴールを奪ったストライカーは、2015年シーズン限りで現役を引退して以降、幼稚園児を教えることから指導者人生をスタートさせた。
2021年に小学生年代を主対象にした「UNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOL」(アンブランデッドウルフスサッカースクール)を首都圏に開校し、子どもたちへの直接指導にこだわる。
一人ひとりを名前で呼び、一人ひとりと真剣に向き合う。誰かに任せることなく、愛情と情熱を持って。「事業」ではあっても、ビジネスが先ではない。だから口コミで反響が広がったとて、現在は千駄ヶ谷校、白金校、吉川美南校、蒲田校と自分でタッチできる範囲に限っている。49歳になっても風貌、マインドともに変わらないが、指導者になって早10年が経った。
「将来、プロを目指して、真剣にサッカーをやって結果を出したいという子どもたちが多いので、そのためにはこういうことが大事なんだよ、ということを繰り返して教えています。技術的なところ、オフ・ザ・ボールのところはもちろんですけど、同じくらい大事なのは気持ちの部分。もし、やる気がないように感じたら、何回も練習を止めますし、『これは目指しているものに対して必要なことだよ』と伝えます。全力を尽くそうとするその気持ちをプレーに出すことは、技術、オフ・ザ・ボールの動きとともに重要なんです。やっぱりそれは(サッカーが)相手と体をぶつけ合うコンタクトスポーツだから。気持ちを込めたプレーが出せるかどうかで違ってくる。技術、オフ・ザ・ボールでうまくなっていったり、気持ちの変化を引き出せたり、そういったことを感じ取れた時が自分の喜びになっています」
アンブランデッドウルフスの名には「自分で生き抜いていく力を身につけ、独自の色と力を持つ選手になってほしい」との願いが込められている。
生半可な覚悟では夢も、目標もつかむことができないのは何よりも彼の半生が証明している。
その旅路は順風なんてほぼ吹かない。強い逆風をまともに浴びる以上、歯を食いしばって踏みとどまらなければ吹き飛ばされるだけだ。
鹿島の練習で味わった、めまいがするような感覚
プロのサッカー選手になることは心に決めていた。茨城・日立市出身の彼は小学生時に全国ベスト4を経験して中学生では関東選抜に入った。日立工時代には国体でベスト4まで進み、中田英寿らとともに世代別の日本代表に選ばれてもいる。
外から見れば光が差しているかのように映るが、本人からすればまったく逆だった。
「中学の関東選抜と言ってもBチームにいたし、うまくいったわけじゃない。(世代別の)代表だってそうです。練習で自分が何点くらいか点数をつけるようにしていて100点満点中30点とか40点とか。だから成功体験なんて別になかったですし、気分が晴れたことなんてない。いつも苦しかったという記憶しかないんです」
高校を卒業して1995年に地元・茨城にある鹿島アントラーズに加入する。レオナルド、ジョルーニョら現役ブラジル代表のほか、秋田豊、相馬直樹、黒崎比差支、長谷川祥之らタレントが揃っていた。
苦しい思いが、もっと深みに入っていくような感覚に陥る。
「絶望どころじゃなかったですね。プロがどのレベルにあるかということを完全に見誤っていましたから。プロがいかに速いか、いかに技術が高いか、いかに予測して動いているか、いかにいろんな蹴り方を持っているか、いかにいいポジションを取っているか……もう驚愕ですよ。練習に入っていったら、めまいがするような感じなんです」
絶望どころじゃなくとも、希望を見出せなくとも、食らいついていくしかなかった。「止める、蹴る」のベースがあまりに脆弱だったため、全体練習後の昼も、夜も基礎を体に刷り込ませた。きちんとした基礎をベースに、プロの姿勢を持って勝利のために全力を尽くす。それこそがジーコの教えだった。睡眠、食事以外はすべてサッカーに時間を費やした。
「アントラーズの選手は、誰も手を抜かない。ここからここまで走るっていうアップ一つ取っても、絶対に最後までスピードを緩めずに突き抜ける。ジョルジもレオも、全力でやるのがアントラーズの選手である条件。やれないヤツは淘汰されていきます。誰からも認められないし、口でもプレーでもそのことを突きつけられますよ。もともと自分のなかにもあったとはいっても周りのそういう姿勢を常に見ていたから、刷り込まれていったところはあったと思います。基礎というのは技術も、体力も。自分が足りないものをきちんとトレーニングしてもらえたことは大きかった。だからアントラーズに入っていなければ、サッカー選手としては数年で終わっていたでしょうね」
決めた約束ごとを破る人間は「夢を叶えられない」
技術力、判断力が高ければそれでいいというわけではない。そこに「気持ち」が乗っていかなければ、アントラーズでは生き残れない。プロ2年目の1996年にJ1デビューを果たしながらも、リーグ戦の出場は2年間で1試合のみ。めまいがしようが、絶望の淵に突き落とされようが、必死の思いで基礎を磨いた。
やると決めたら、必ずやり切る。
小さい頃から自分で決めた約束ごとを、一度も破ったことはなかった。
「両親の影響があったかどうかは分からないですけど、誠実な両親なのでその考えの根本にあるというのは間違いないとは思うんです。ただ、決めたことを破るぐらいの弱さがある人間は、目標には達することができない、夢を叶える人間になることはできないっていうのは何となく小さい時から分かっていました。別に一番になるとか、そういう決めごとではなくて、頑張ればこなせるようなもの。絶対にできるようなことなんだから、絶対に破らない。小さい頃からそうでした」
芽は出ていなくとも、確実に「基礎」という根を地面に張り出していた。試合に出ていなくとも、食らいついてくるヤツだとアントラーズの実力者たちからも認められていた。
プロ3年目に入った1997年シーズン、ジーコがクラブの会長を務めるリオデジャネイロ州3部のCFZに武者修行へと向かう――。(文中敬称略/第2回に続く)
■鈴木隆行 / Takayuki Suzuki
1976年6月5日生まれ、茨城県出身。日立工業高校から1995年に鹿島アントラーズに加入し、CFZ(ブラジル)、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)、川崎フロンターレへの期限付き移籍を経て、2000年途中に鹿島へと復帰。トニーニョ・セレーゾ監督の下で出場機会をつかみ、リーグ、天皇杯、ヤマザキナビスコカップ(現・YBCルヴァンカップ)の三冠に貢献した。その後はベルギー、セルビア、アメリカでもプレーを経験している。日本代表としても活躍し、2002年の日韓W杯の初戦となったベルギー戦では同点弾を記録するなど、通算55試合11得点を記録。2015年を最後に現役を引退し、現在はUNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOLの代表を務める。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。













