パンツ一丁で待ったW杯「すぐに着替えられるように」 最大のチャンスも…飲み明かした四ツ谷の夜

石川直宏氏にとってすべてが噛み合った2009年
現役時代、FC東京で長年にわたり活躍した元日本代表MF石川直宏氏。プレースタイルが変化した2009年、キャリアハイとなる15得点をマークし、5年ぶりに日本代表に復帰を果たす。最大のチャンスだった2010年南アフリカW杯のメンバー発表の日、その舞台裏を語った。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎/全7回の5回目)
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膝の怪我もあって、2006年W杯ドイツ大会のメンバー選考にはほとんど絡めなかった。4年後の南アフリカ大会に向けて、気持ちは切り替わっていた。
「怪我をしっかり治して4年後(のW杯)ということを考えていました。年齢的にも26、27、28、29と、ちょうど良い時期だったんで、自分の感覚としては良くなっていきたい。だけど、当時チームは結構苦しくて、ガーロというブラジル人監督が、クラブでは初めて外国人監督が来たんですけど、うまくいかなくて。2007年に今までのサッカーを取り戻すということで原博実さんが戻ってきました」
自身をFC東京に導いてくれた恩人の復帰。だが2人の間には以前とは違い“ズレ”が生まれていた。石川は負傷した膝と向き合い、これまでのスピードに頼るプレースタイルから変化させようとしていた。
「自分はその時には膝が治っていたので試合には出ていたんですけど、原さんが求めたことは、怪我する前の僕。でも僕は怪我もしたし、スピード一辺倒ではもう無理だと思っていて、プレースタイルを変えたかった。もっと周りとの関係を構築して、システマティックに動きながら自分が仕事をするっていうイメージがあったんです。監督の求めることと僕の理想とのギャップが、もうめちゃくちゃあった。コミュニケーションを取るのもそんなに得意じゃなかったので、当時バチバチだったんです。『お前はこれやっておけばいいんだ』『いや、こうじゃなくて、僕はこれやりたいんです』『じゃあ、出んな。交代!』みたいな(笑)。その後、鈴木規郎を使うことになって、僕は出られなくって。結構2007年はしんどかったんですよ。後半はあまり口も聞かなかったんです。今では全然普通なんですけどね」
2007年を12位で終えたFC東京は、2008年には世代別代表を率いていた城福浩監督を招聘。人もボールも動く「ムービングフットボール」を掲げる指揮官の下で、大きな転機が訪れた。
「城福さんから『今のスタイルじゃ試合は出さない』って言われて、『うわ、これめちゃくちゃチャンスだ』と思ったんですよ。180度違うサッカーをするので、2008年は僕はプレシーズンも、最初の方も満足に試合に出られなかったし、しっくりくるまで時間かかったんですけど、1年かけて、自分のスタイルと城福さんが求めるスタイル、ボールを動かすっていう所が融合していって、2009年の得点量産につながっていきました」
城福体制2年目となった2009年、ついに覚醒する。6~7月には4試合連続ゴールを決めるなど、シュートを打てば入る“打出の小槌”状態。リーグ戦では得点ランク4位となる15得点を挙げて、ベストイレブンも受賞。まさに水を得た魚だった。
「驚きというよりは、僕は常に変わらずなんですよ、マインドは平常心で。要するに自分のパワーの出し所を考えるようになって。今までだったらパワーをフルに使いながらやってましたけど、パワーを抑えることによって周りが見えるようになって、思い通りに身体が動くようになった。周りが見えながら敵と味方、スペースで関係を作りながら、フィニッシュする体力、判断力を取っておいて、最後自分が決める。もうこれだけだったので。自分の身体、コンディション、周りとのイメージ、監督の求めること、周りの選手たちのスタイル、全部がカチッと噛み合った。周りから言うと『確変した』という風になりますけど、自分としてはそんな感覚はないんですよ。なるべくしてというか、しっくりはまったという感じ」
最大のチャンスだった南アフリカ大会
Jリーグで無双するアタッカーを、日本代表の岡田武史監督が見逃すはずもなかった。10月には約5年ぶりに代表に招集され、10日のスコットランド戦、14日のトーゴ戦共に出場。W杯出場が現実味を帯びてきた。だがその直後にホーム・味スタで行われた柏戦。後半24分にシーズン15点目となるゴールを決めた後、相手選手と接触。左膝を抱えて倒れ込んだ。
「左膝の前十字をやりました。その3日前に宮城で代表戦があって、途中から出て、ゴールにも絡んで。『じゃあ、もう翌年の南アフリカだ』みたいな感じの流れだったんです。でも自分の中でパフォーマンスを出せちゃう状態でずっといたので、極限の状態で臨んだ柏戦だったんです。今までの中で多分一番イメージ、身体の動き、ゴールまで全部がハイレベルで出せた試合だったんですよ。代表へのアピールもあったし、3-0で勝っている状況で4点目取りに行って、それで怪我しちゃったんですけど。結局どこまでもそのパフォーマンスを上げていきたいっていうところが、限界を超えちゃったのかなと」
W杯イヤーの2010年には復帰したものの、前年の感覚とは全く違った。クラブも2009年にナビスコカップ優勝を果たし、「今年はリーグ優勝を目指す」と意気込んで臨んだが、歯車は噛み合わなかった。
「怪我をする前と全然感覚が違いました。前十字は半分以上切れていて、膝がグラグラ。自分の思ったフィニッシュだったり、プレーができないもどかしさ……。怪我からなかなかパフォーマンスが上がらなかった」
W杯メンバー発表前最後のテストマッチとなった4月のセルビア戦では途中出場を果たした。だが、ホームで0-3の惨敗。当時の岡田武史監督は、結果が出ない中、ガラッと守備を重視したスタイルに変更することを決意した。そんな中、運命の日を迎えた。
「メンバー発表は家で見ました。もう皆さんと同じで、本当にテレビで流れる映像を見て知るんで、事前に情報はないんですよ。僕は練習後、家に帰っていて、選ばれたらスーツに着替えて取材対応という段取りでした。今ちゃん(今野泰幸)や(長友)佑都は選出が確実だったんですけど、僕はギリギリで分からなかった。だからすぐスーツに着替えられるように、パンツ一丁で見ていました。
発表はポジション別、たしか年齢順で言われたと思います。松井(大輔)が1981年5月11日生まれで、僕が次の日の12日なんですよ。で、阿部(勇樹)ちゃんが9月で。松井の後に、僕の名前が呼ばれなくて阿部ちゃんになった時に『あ、終わった』って分かりました。だから、そのままふて寝しました。でもふて寝しようとしたけど寝られず、もやもやして。もう四ツ谷に行って、散々飲み明かして、ベロンベロンになって。で、次の日練習でうわーって走りました(笑)」
松井、阿部、大久保嘉人、駒野友一らアテネ世代が多く選ばれた岡田ジャパンは、守備的な戦いにシフト。W杯本番では下馬評を覆してグループステージでカメルーン、デンマークを撃破。決勝トーナメントに進出し、1回戦でパラグアイにPK戦負けをしたものの、日本中をわかせた。同性代の盟友たちの躍進を、石川はテレビで見守った。
「テレビで見ていて、駒野にしろ、松井にしろ、一つ下の大久保嘉人、矢野貴章もいて。同世代の阿部ちゃん、岩政(大樹)、川島永嗣もそう。純粋に『谷間の世代』って言われていた同世代が活躍する、躍進している姿は嬉しかったと同時に、ここに自分がいたらどうだったのかなっていうことも考えなくはなかったですね。あそこがチャンスだったのかなと思います」
この時、29歳。W杯への夢は叶わなかった。石川の中で心境の変化が生まれていく。(第6回に続く)
(FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎 / Shintaro Inoue)





















