まさかの5部降格…58歳カズ「これもサッカー」 プロ40年目は「怪我の多い1年だった」

東海リーグ降格となった鈴鹿の三浦知良「残留したかったけれど、残念です」
FW三浦知良(カズ)が所属するアトレチコ鈴鹿の地域リーグ降格が決まった。JFLで16チーム中15位となった鈴鹿は11月30日、JFL・地域入れ替え戦で地域チャンピオンズリーグ(CL)2位のVONDS市原と対戦。延長戦の末に0-1で敗れ、JFL脱会と東海リーグ行きが決まった。58歳のカズは延長後半5分に交代出場したが、チームを残留に導くことはできなかった。
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待っていたのは、鈴鹿にとって最悪の結末だった。ホームの三重交通Gスポーツの杜鈴鹿での一発勝負は、両チームの守備が堅く、ノーゴールのまま延長戦へ突入。前半8分に市原FW加藤勇司ベサーナにゴールを許した。
1点を追う終盤は相手ゴールに迫り、惜しい場面も作った。「得点や得点に絡む動きを期待して」(山本富士雄監督)残り10分にはカズも投入されたが、ゴールは遠く試合終了。7年間在籍したJFLからの降格が決まった。
「チームの歴史を作ってくれた先人、応援してくれた地元企業やサポーター、そういう人たちのために何とか残留したかったけれど、残念です」とカズは言った。「これがどういう試合なのか、僕もチームメートも分かっていましたが」と「格下」相手に勝ち切れなかったことも悔やんだ。
「J3昇格」を目指してスタートしたシーズンだった。序盤こそ白星が先行したものの、6月以降勝てない時期が続いて8月のリーグ中断前には11位まで後退した。10月13日に沖縄SVに勝つまでは11試合連続勝利なしと泥沼は続いた。
「6、7月ごろからチームがいい状態でないのは感じていた。降格するチームの雰囲気、負け方でした」とシーズンを振り返った。実際に昇格が厳しくなった中断前には「下も見ないといけない」と危機感を口にしていた。「悪い流れを食い止められなかったのが残念」と話した。
それでも、最後は可能性も感じていた。「引き分けで十分」だったラストに3連敗して15位に転落したが「結果は出なかったけれど、戦い方はよくなっていたし、スピリットがあった。集中力も、試合にかける気持ちもあった。それが30試合できれば、降格はなかったと思う」と思いを明かした。
チームとともに、自身の1年も振り返った。コンディション不良で開幕に間に合わず、怪我で長期離脱した。リーグ戦30試合中15試合でベンチに入り、7試合出場してプレー時間は59分。FW陣の怪我人続出もあって、満足な状態でないままピッチに立つことが続いた。「怪我の多い1年だった。5月くらいまで試合に関われなかったし、1年を通してチームの力になれなかった」と悔しがった。
それでも、プロ40年の経験がある。反省し、残念がりながらも「これもサッカーと言ってしまえばそこまでですが、降格や昇格は世界中どこにでもある。挫折も味わえば喜びも味わう。その繰り返し。大事なのはどんなことがあっても諦めず、前を向いて這い上がっていくこと」と話し、怪我に苦しんだ自身についても「これもサッカー人生の一部。次に生かしていきたい」と前向きに言った。
試合後、ピッチに崩れ落ちたMF日高慶太主将に歩み寄って手を差し伸べた。「最高のリーダー、強い責任感でチームを引っ張ってきてくれたからこそ、立てなかったのだと思う」と敬意を込めて感謝した。さらに「選手たちは全員がまじめで、与えられた環境の中で全力を尽くしていた。みんなをリスペクトしているし、みんなに支えられた1年だったと思います」とチームメートにも感謝した。
山本監督は「選手の力を出してあげられなかった。すべては私の責任です」と振り返った。クラブの斉藤浩史オーナーは「降格を真摯に受け止め、もう1度、東海リーグからやり直したい。まだ(オーナー就任から)2年、地域密着をさらに進め、しっかりと基盤作りをしてJリーグを目指したい」とサポーターの熱い思い、期待を受け止めて話した。地域リーグからJFLは簡単ではないが、歩みは止めない決意だ。
カズの鈴鹿との契約は来年1月末まで。その後は未定だが、12月8日からはプロ41年目に向けて恒例の自主トレに入る。「去年は自主トレから(レンタル移籍元の)横浜FCのキャンプと反省すべき点も多かった。今年のような怪我をしないように、しっかりと身体を作る努力をしたい」と、来季に向けての意欲を口にした。40回目のシーズン終了のホイッスルは、41回目のキックオフの笛。カズのサッカー人生は終わらない。
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。




















