トルシエの“乗り遅れ”発言に奮起 日韓W杯に届いた信念「別の経路で行けばいい」

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:市川大祐(清水エスパルス・トランジションコーチ)第4回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。市川大祐はワールドユース欠場という代償を払いながらも、オーバートレーニング症候群を乗り越えた。日韓W杯出場の目標を叶えるためにクラブで奮闘し、見事メンバー入り。日本サッカーの歴史を変えた大会で、磨き続けたクロスが得点を呼び込むことになる。(取材・文=二宮寿朗/全5回の4回目)
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人の言葉に発奮するというのは誰にでもある。
1999年のワールドユース選手権(現U-20W杯)準優勝を受け、フィリップ・トルシエ監督がオーバートレーニング症候群を患ったことで不参加となった市川大祐に対して「電車に一本乗り遅れた」と発言したことが、本人の耳にも届いた。気持ちにスイッチが入った。
「そう言われていると聞いた時に、僕だってその電車に乗りたかったよとは思いましたよ。でも別に乗り遅れたわけじゃない。乗れない状況だっただけのこと。だったらその電車に乗れなくても、別の経路で目的地に行けばいいやって思いました」
目的地とはつまり2002年の日韓W杯。病気から回復後、清水エスパルスの主力として1999年のセカンドステージ優勝、1999~2000年のアジアカップウィナーズカップ制覇とチームに貢献していく。A代表の指揮を執るトルシエからなかなかお呼びが掛からなくとも、モチベーションは高止まりしていた。
「呼ばれないなら、呼ばざるを得ない状況を作ろうと思いました。だから2001年のシーズンに入る前には、結果を出し続けて『どうして市川がメンバーに入らないんだ』ってみんなが思うような1年にしようって誓ったんです」
守れば右サイドからの突破を許さず、攻めればオーバーラップして味方のチャンスにつなげていく。リーグ戦全30試合フルタイム出場を果たすこの年、特に際立ったのがクロスの精度であった。クロスの質そのものと判断と呼吸、すべてが合致してアシスト王に輝いている。
きっかけは2001年4月7日、ホームでのヴィッセル神戸戦。後半途中から入ってきた久保山由清に対してドンピシャのクロスを送り、決勝点をアシストしたシーンだ。
「クロスを上げる際、いつもボールを前に置いていたのですが、この時は(右足の)外側でした。そうしたら目の前に相手がいてもボールを外側から回せることに気づいて。そのコースを消されたとしても、ならば切り返せばいい。それまでは置き場所なんてあまり考えないでボールの質ばかり気にしていました。でも工夫次第でしっかりクロスを上げられるし、ボールがうまく上がらなかったらその理由を理論立てて考えられるようにもなった。じゃあ、うまくいくように練習で反復してやっていこう、と。
クロスを上げる際、ディフェンスラインとGKには“間”がありますよね。僕はそこを道だと思っていて、その道が見えた瞬間にボールを通していくイメージなんです」
いかなる状況であっても道を作るのは自分次第。それを頭に入れながらプレーすることで、クロスをどこにどのタイミングで送ればいいかが見えてくる。アシストの量産によって、A代表に呼ばざるを得ない状況を作り上げた。
市川の意地が実る。
W杯イヤーとなった2002年1月の日本代表合宿に招集され、3月のウクライナ代表戦で先発として起用されると、続くポーランド代表戦では前半早々、右クロスから中田英寿のゴールを呼び込み、前半終盤にはアーリークロスから高原直泰のゴールをアシストしている。
攻撃面のグレードアップはトルシエを振り向かせることになる。23人の本大会メンバーに滑り込み、電車に一本乗り遅れても目的地にたどり着いてみせた。
「メンバー発表を母親と一緒にテレビで見ていましたけど、僕は正直五分五分だと思っていました。最後に名前が呼ばれたら母親が後ろから『入った!』と抱きついてきて。いつもサッカーのことは何も言わない人なのに、4年前のことも含めてずっと心配してくれていたんだなって思いました」
市川の悔しさを、苦しみを陰からずっと見守ってくれていた。メンバーに入った嬉しさと同時に、感謝の気持ちがこみ上げた。
W杯で見せた職人技「体が勝手に動いた感じ」
2002年6月4日、埼玉スタジアム。ベルギー代表との初戦、市川はスターティングメンバーに名を連ねた。
あれだけ遠く感じたピッチとタッチラインの間を超え、君が代を歌える感慨に浸った。緊張もなく、不思議なくらいに落ち着いていた。
セットプレーから先制されながらも鈴木隆行、稲本潤一のゴールで勝ち越す。しかしながら後半30分にフラットスリーの裏を突かれて追いつかれ、引き分けで終わった。
「失点シーンに絡んでしまっていたので、悔しさが大きかった。勝ち点3を取れた試合だったので、勝ち点2を失った感じでしたね」
歴史的な初勝利を挙げるロシア代表との第2戦はベンチに回り、出番はなかった。そして迎えた長居スタジアムでのチュニジア代表戦、前半0-0で折り返したところで後半スタートからピッチに入る。やるべきことは分かっていた。
「あの状況でトルシエさんが自分を起用するということは攻撃的に行く、点を奪いに行くということ。ベルギー戦の悔しさもありましたから、何とかしたいっていう思いもありました」
同じく後半から入った森島寛晃が先制ゴールを挙げる。日本ペースが続くなか、後半30分に市川にとって最大の見せ場が訪れる。
右サイドのタッチライン際でサイドチェンジのパスを受け取ると、ペナルティーエリアに向かってドリブルを仕掛け、フェイントからファーサイドにクロスを送る。そこに飛び込んできた中田英寿の頭にドンピシャで合わせた。
「あの時は体が勝手に動いた感じでした。(フェイントで)相手の体勢が崩れた時に、このタイミングでクロスだな、と。蹴った感触もメチャメチャ良くて、これは決まるなって思いましたよ。あとはスローモーションみたいにゆっくりと時間が流れていく感じで、ヒデさんの頭に向かっていきました」
アシストの瞬間、雄叫びを上げる市川がいた。一本の道を作り出し、そこを通した職人技。磨き上げてきたものを、結実させた瞬間でもあった。日本はチュニジアを下して2勝目を挙げ、グループステージ1位突破を決めた。
オーバートレーニング症候群を乗り越えてたどり着いたW杯の大舞台で自分らしい仕事ができた。
しかしその満足度が続かないのも、どこか市川らしくもある。トルコ代表との決勝トーナメント1回戦では前半にリードされ、チュニジア戦と同じように後半スタートから出場したものの、終盤に交代させられてしまう。チームはそのまま0-1で敗れた。
「試合に入り切れなかったのもありますが、トルコも自分のクロスをかなり警戒していて上げさせないようにかなりタイトに当たりにきた。結果、チャンスを作り出せなくて、自分の力がまだまだ足りないなと思わされました」
日韓W杯以降、トルコ戦の映像は一切見なかったという。悔しい気持ちを全開に、もっと高みを――。市川大祐が歩みを止めることはなかった。
(文中敬称略/第5回に続く)
■市川大祐 / Daisuke Ichikawa
1980年5月14日生まれ、静岡県出身。清水エスパルスユース所属時の1998年3月に17歳でJリーグデビューを果たし、1999年のJ1リーグ2ndステージ優勝、アジアカップウィナーズカップ1999-2000優勝に貢献。2010年の退団まで、チームの右サイドを支え続けた。日本代表には1998年に歴代最年少の17歳322日でデビュー。2002年の日韓W杯にも出場し、グループリーグ第3戦のチュニジア戦では中田英寿のゴールをアシストした。2016年の引退後は指導者に転身し、25年から清水エスパルスのトランジションコーチを務めている。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。





















