W杯出場も「僕は成功していない選手」 時代を先取りした二刀流…41歳で目指す“オンリーワン”

矢野貴章がサイドバックに転向した名古屋時代を振り返った【写真:(C) TOCHIGI SC】
矢野貴章がサイドバックに転向した名古屋時代を振り返った【写真:(C) TOCHIGI SC】

矢野貴章が振り返るFW→サイドバック転向の裏側

 日本代表として2010年の南アフリカ・ワールドカップにも出場し、ドイツ・ブンデスリーガのフライブルクでプレーをしたFW矢野貴章。41歳になった今でも現役を続ける大ベテランのキャリアについて話を聞いた。第7回はFWからサイドバックに転向したきっかけについて。(取材・文=元川悦子/全8回の第7回目)

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 柏レイソル、アルビレックス新潟、フライブルクを渡り歩いた矢野貴章が4つ目のクラブである名古屋グランパスに赴いたのは2013年。柏入りに尽力してくれた久米一正チーム統括本部長兼GM(故人)が再び誘ってくれたことが加入の大きなきっかけになった。

 同年の名古屋は西野朗監督が指揮を執り、矢野自身が「対戦相手で一番嫌な選手だった」と認める田中マルクス闘莉王を筆頭に、楢崎正剛(名古屋GKコーチ)、玉田圭司(名古屋トップコーチ)、永井謙佑(名古屋)ら日本代表経験者がズラリ。助っ人外国人もジョシュア・ケネディやダニルソンなど優れたタレントがいた。

 矢野は当初、ケネディの控えという位置づけだったが、ケネディが負傷離脱した後はスタメンに定着。その後はジョーカーとして途中出場することが多かったが、ゴール数はわずかに「1」とブレイクはならなかった。

 そして迎えた2014年。西野監督はFWだった矢野を右サイドバック(SB)にコンバート。本人にとっては中学生以来となるポジションでのプレーだったが、30歳の新たな挑戦がキャリアの大きな転機となったという。

「中学時代に少しだけ経験したことが西野さんのなかにあったわけではないと思いますけど、僕自身はやれる自信がありました。その経緯というのは、この年の名古屋がケガ人続出で、右SBをやれる選手が誰もいなくなって、試合に出ていなかった僕に白羽の矢が立ったという形です。

 自分としても『試合に出られるならどこでもいい』という気持ちだったし、『僕を使ってくれないかな』と思っていた。実際に西野さんが起用してくれた時はチャレンジングなマインドで前向きに取り組めました」と矢野は目を輝かせる。

 右SBはFWと違ってタッチライン際のアップダウンが多くなり、走行距離やスプリント回数も自ずと多くなる。1対1の守備力も求められて、1つのミスも許されないような重圧のかかるポジションだ。

 それでも矢野は「守備が面白かったし、その中で機を見て、隙あらば攻撃に出ていくところが自分のよさを出せる」とワクワク感を持ってプレーできたという。新たな役割に必死にチャレンジすることで学びも発見も多く、充実した時間を過ごすことができた。

 それを名古屋時代の2016年まで継続し、2017年に新潟へ行ってからも継続することになったが、ガムシャラにアタックしているうちに、南アW杯やフライブルクで感じていた後悔や不完全燃焼感が自然と消え去っていったという。

「SBを3~4年やりましたけど、守備をする時には『今、FWの選手はこういうことを考えてプレーしているはずだ』とか『相手がこうやって動いてきたら嫌だな』とかFW側の気持ちをイメージしながらプレーすることができました。

 攻撃参加した際には、『今、FWの選手はこういうタイミングでボールを入れてほしいと考えている』『クロスを入れる位置にもこだわっていかないといけない』と、中にいる選手のことを考えながらプレーできるようになりましたね。

 その後、自分はFWに戻りましたけど、SBに要求もしやすくなった。両方の気持ちを理解しながらやれるというのはメリットが大きいし、重要なことだと思います。僕をSBで使ってくれた西野さんにはホント感謝ですね」と矢野は晴れ晴れとした表情を見せていた。

「僕はチャレンジングなことが楽しい人間」

 当時から10年近くが経過し、1人の選手が複数ポジションをこなすというのはもはやスタンダードになりつつある。

 今の日本代表選手を見ても、もともとトップ下やシャドーが主戦場だった堂安律(フランクフルト)が右ウイングバック(WB)に入り、右SBのように最終ラインまで下がって守備をする姿が当たり前のように見られる。伊東純也(ヘンク)にしても、2022年カタールW杯で右MF、右WB、シャドウー、FWと数多くのポジションをこなし、チームを支えていた。「監督が求めた役割を最大限こなすのが選手の仕事」という割り切りがあるのだろう。

 西野監督は大胆不敵な選手起用やマネージメントが光った百戦錬磨の指揮官だが、時代を先取りすることにも長けていたのかもしれない。

「僕はチャレンジングなことが楽しい人間なんですよね。『こういう選手ってなかなかいないよね』と言われるのがすごく嬉しい。41歳で現役を続けていることもそうですけど、『オンリーワン』になりたいんですよね。

 確かにあの頃はFWとSBを両方やるという選手はほぼいなかった。でもそれを経験したからこそ、今の僕があるんです」としみじみと語っていた。

 30代でのSB挑戦を含めて、矢野はサッカーに対してとにかく貪欲だ。その原動力になっているのは、何度か触れている通り、南アW杯とフライブルクでの挫折経験が大きい。本人にしてみれば、それも含めて「僕は何も手にしていない」という気持ちが強い。渇望感が自分を突き動かすのだろう。

「苦労って言い方はおかしいですけど、僕は成功していない選手。何か大きな成果を手にしたというのはないですし、何も達成していないんです(苦笑)。他の人からは『W杯へ行った選手』と見えるかもしれないけど、自分が何かをやり切ったという感覚は全くないですね。大きな喜びは1つ1つの勝利だけ。それを追い求めて柏、新潟、名古屋の時もそうだし、今もやり続けています」

 そのひたむきな姿勢が41歳の今まで続いているからこそ、矢野貴章はピッチに立ち続けている。今の一挙手一投足を名古屋で右SB起用した西野監督は一体、どう見ているのだろう。ぜひ今度、聞いてみたいものである。(第8回・最終回に続く)

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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