「今も生きている」オシムの金言 “恩人”に助けられた若手時代…代表で発見「そういう考えもあるんだ」

矢野貴章にとっての恩人・久米一正氏「本当に偉大過ぎる先輩」
かつて日本代表として2010年の南アフリカ・ワールドカップにも出場し、ドイツ・ブンデスリーガのフライブルクでプレーをしたFW矢野貴章。41歳になった今でも現役を続ける大ベテランのキャリアについて話を聞いた。第5回は柏レイソル、アルビレックス新潟での経験、そして初の日本代表選出について。(取材・文=元川悦子/全8回の第5回目)
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静岡県浜松市出身の矢野は浜名高校出身だ。浜名と言えば、今年から母校に戻った柳下正明監督、横浜F・マリノスで長くGKコーチを務めた元日本代表の松永成立氏など数々の名選手を送り出した名門校。柏レイソル、清水エスパルス、名古屋グランパスで長く強化に携わり、JFAの技術委員も歴任した名ゼネラルマネージャー(GM)・久米一正(故人)のような人材も輩出している。
高校時代にU-17日本代表として2001年U-17世界選手権(現ワールドカップ=トリニダード・トバコ)に参戦した矢野に、卒業時点で複数のJリーグクラブからオファーがあった。その彼が柏を選んだのは、久米氏の存在が大きかったという。
「自分が高校3年だった2002年の時点で、久米さんはレイソルの強化本部長を務めていて、熱心に誘ってくれました。本当に偉大過ぎる先輩で、何かを軽く言えるような立場ではないんですけど、僕をプロサッカーの世界へと導いてくれた人なのは間違いない。自分がレイソルに入った2003年に清水へ行ってしまったので、柏では一緒に仕事することはできなかったんですけど、2013年に名古屋へ移籍した時にはGMをされていて、また僕を引っ張ってくれた。苦しい時に助けてくれた恩人ですね」と矢野は改めて感謝を口にする。
プロ生活の第一歩となった柏時代は必ずしも順風満帆とは言えなかった。2002年途中に就任したマルコ・アウレリオ監督は若い世代を重用。矢野もルーキーイヤーの開幕戦・FC東京戦からスタメンに抜擢された。しかし、池谷友良監督(浙江FC育成ダイレクター)が就任した2004年の試合出場はわずか2試合で9分のみ。早野宏史監督(解説者)、竹本一彦監督(東京Vスタッフ)が率いた2005年は19試合2ゴールという結果を残したが、チームは最終的にヴァンフォーレ甲府とのJ1・J2入替戦に敗戦。J2降格の憂き目に遭った。
「レイソルには3年間お世話になりましたけど、2年目は全く試合に出ていなくて、その時のもがきとか苦しさを含めて、本当にいい経験ができたと思っています。
そして2005年にJ2に落ちた入替戦は本当にショックというか、衝撃的な負け方でしたね。最初にアウェーで1-2で負けて、日立台に戻った第2戦はバレーにダブルハットトリックを決められて、2-6。もう20年くらい前の出来事なんで、あんまり覚えてないっちゃ覚えてないですけど(笑)。当時はまだ若かったし、何も分からず、身を任せてやっていたってだけでしたね」
20年前の柏を振り返ると、2002年日韓W杯に参戦した明神智和(G大阪トップコーチ)、当時代表だった玉田圭司(名古屋トップコーチ)、2023年に引退したレジェンド・大谷秀和(柏トップコーチ)、2024年に引退した南雄太(解説者)など、錚々たるタレントが名を連ねていた。にもかかわらず、最後まで負のスパイラルに歯止めをかけることができなかった。
「クラブや選手、全てが同じ方向を向いて、一丸となって戦えていないとチームというのは難しくなりますね。試合に出ている人、出ていない人に関係なく、みんなが1つの方向を向けているか、結束できているかというのがすごく大事なんだと感じたシーズンでもありました。
逆にその後の2012年にアルビレックス新潟で経験した“奇跡のJ1残留”の時なんかは全員の団結がすごかった。その年の自分はあまり試合には出ていなかったんですけど、みんなの関係性のよさ、力を合わせて頑張る感じはレイソルの時とは少し違った気がします」と矢野は若かりし日の挫折に思いを馳せる。
迎えた2006年。明神がG大阪、玉田が名古屋へ新天地を見出す傍らで、矢野も永田充とともに新潟移籍を決断。そこでようやく安定したパフォーマンスを示せるようになる。2006年の新潟は反町康治監督(清水GM)が前年末に退き、鈴木淳監督(山形明正高校監督)率いる新体制へ移行したばかりだった。反町体制でも主軸を担っていた寺川能人(新潟強化部長)、ファビーニョ、エジミウソンは残ったが、世代交代が進み、矢野にとってもやりやすい環境になったのは確かだ。
2006年の33試合出場6ゴールという実績も評価され、矢野は2007年3月のペルー戦(日産)で日本代表に初招集される。その時の指揮官はご存知の通り、イビチャ・オシム監督(故人)だった。
「オシムさんの代表に行った時は練習に臨むにあたっての空気感が常にピリッとしていました。7~8種類のビブスを選手につけさせて判断とかトランジションを鍛えるトレーニングもあったと思いますけど、あんなに複雑な練習をしたのは後にも先にもオシムさんの時だけですね(笑)。
それを経験して『そういう考えもあるんだな』と驚いたし、初めはできなかったのに徐々にできていく不思議さも感じた。攻守の切り替えも今では当たり前になってますけど、当時はそこまで主流ではなかったんで、ああいうことを先取りできたのはすごく貴重なことでした」
オシム監督は独特の言い回しで多くの人々を魅了したが、矢野自身も頭に残るフレーズがあるという。
「呼ばれてすぐに『もっとコレクティブにサッカーしなさい』と言われました。当時は生き残っていかなきゃいけないって気持ちが常に頭にあって、自我というか、自分を出すことが先に立っていたと思うんです。でもオシムさんは『チームのためにできるプレーをもっとシンプルにやりなさい』と言いたかったんだと思う。それは20年近く経った今も生きている言葉ですね」
FWはゴールを奪うことが最重要タスクだが、それだけでは周りを納得させられない。特に今の時代は前線からの守備やハードワーク、ボールを収めて周りを生かす動きが重視されている。オシム監督は若かった矢野にその重要性を伝えたかったのかもしれない。20代前半のうちに偉大な名将と出会えた幸運を彼は噛みしめている。(第6回に続く)
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。





















