交わした挨拶「契約がなかったら」 引退覚悟も…つないだ20年前の縁「自分だけの力では」

山瀬功治が愛媛から山口に移籍した背景とは【写真:FOOTBALL ZONE編集部 】
山瀬功治が愛媛から山口に移籍した背景とは【写真:FOOTBALL ZONE編集部 】

愛媛を契約満了となった山瀬功治、山口・名塚善寛監督との縁で起こった奇跡

 2000年にJリーグのコンサドーレ札幌でプロ選手となった山瀬功治氏は、J1とJ2の計8チームに在籍し、2024年をもって43歳で現役を退いた。日本代表としても13試合に出場し、25年も現役を続けただけに、“禍福はあざなえる縄のごとし”という言葉がぴったりのサッカー人生だった。24年連続得点のJリーグタイ記録を樹立した最終クラブ、レノファ山口までの来歴をつづった。(取材・文=河野正/全8回の6回目)

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「37歳になる年でしたし、年齢的に引退してもおかしくなかった。まあ、そうなったらそれが答えなんだと受け入れる覚悟はできていたので、(チーム始動日の前日に契約した)アビスパ福岡のときよりは落ち着いていられました。でも、このまま終わっちゃうのかなという思いも確かにありましたね」

 福岡での2シーズンを終えた山瀬は、待てど暮らせど次のクラブが見つからず、引退も視野に入れつつ福岡大学などに頼んで学生とトレーニングしながら加入先を探した。

 半ばあきらめかけていた折、愛媛FCから獲得の申し出があった。2月5日にクラブが発表し、チームに合流したのがその翌日という慌ただしさ。1月8日の始動日から1か月も遅れて新天地にやってきたのだが、同い年の川井健太監督が強化部長と話し合って獲得を決めたという。

 1年目は、フィールド選手として4番目に多いリーグ戦38試合(先発20)に出場し、チーム5位の4点をマークした。第12節の大宮アルディージャ戦では前半9分、ハーフウエーライン付近で相手のパスを奪うと、そのままドリブルを開始。ペナルティーエリアまで持ち込むと、左足で先制点を蹴り込んだ。これで連続得点記録は20年に伸びた。

 2年目もリーグ戦32試合(先発15)のピッチに立ち、第16節のFC町田ゼルビア戦で21年連続ゴールを決める。前半追加タイム、横谷繁の縦パスで守備ラインを切り崩すと丹羽詩温が右からグラウンダーの最終パス。左足ダイレクトで同点ゴールを沈めた。

 このとき、「引退もあり得た状況のなか、現役続行のチャンスを与えてくれたクラブのありがたみが身に染みる。今はクラブとサポーターに感謝しながら懸命にプレーしています」と救ってくれた恩に報いるため、労苦をいとわず一心にサッカーに打ち込む姿勢を貫いたものだ。

 最終の3年目はリーグ戦27試合に出場。13試合に先発したが、ラスト7戦のうち6試合がスタメンというのだから、シーズン終盤まで体調管理に余念がなかったようだ。

 第34節のFC琉球戦。後半36分に起用されてから6分後、藤本佳希に縦パスを入れた瞬間、もう全速力で敵陣へと駆け上がっていた。藤本が左から上げた低いパスを左足で合わせ、値千金の決勝点を奪った。22年連続得点である。

 愛媛での3年間について山瀬は、「若い選手が多いので大事なことを言葉と行動で示しました。育てるという表現は適切でないかもしれないが、そういう立ち位置にシフトしていきました」と回想する。

 キャリアをスタートさせた札幌市から6クラブ目の福岡市まで、いずれも政令指定都市で生活してきたが、四国で暮らすのは初めてのこと。大都会とのギャップを感じ、不便を感じたことはなかったのか。

「ずっと都会であくせく働いてきた人が、退職後や老後は地方でのんびり暮らしたいという気持ちが実感できたというか、こういうことなんだなって理解できた気がしました。松山市は都会と田舎が融合していて住みやすかった。自宅は中心部から車で20分ほど、何の不便もありませんでした。ご近所との交流もどんどん増えていき、京都、福岡に続いてここでも新しいコミュニティーができたんです」

 3年目のプレーを見る限り起用法はともかく、貴重な戦力と思われたが4年目の契約はなかった。京都の最終シーズンからどのクラブとも1年契約を交わしてきたので、この頃から毎年引退を意識していたそうで「そのときをずっと覚悟しながら過ごしていた」という。

 合縁奇縁。ひょんなことから移籍先が見つかった。

 2021年12月5日、愛媛はホーム最終戦でレノファ山口と対戦。先発した山瀬は最後までピッチに立った。試合後、20年前に札幌で2年間同僚だった敵将・名塚善寛監督とこんな会話をした。

「まだ動けるじゃないか。きょうも怖い存在だった」とエールを送る監督に、「来年の契約がなかったら山口に呼んでください」と何とはなしにささやいていた。

 翌年のチーム編成が佳境を迎えた頃、山口はベテランMFを照会していた。山瀬の言葉をふと思い出した名塚監督は、強化責任者と招請を検討し獲得に至った。あのとき、挨拶に行っていなかったら……。言葉をかみ締めながら、実感を込めてしみじみと語る山瀬の表情が何とも印象的だった。

「技術を磨き、体のケアを怠らず、いろんな努力をするのはプロ選手として当たり前のこと。でもどんなに頑張っても、自分だけの力ではどうにもならないのが縁ですよね。人との縁が本当に身に染みるようになりました。特にサッカー人生の後半から、世の中は人と人とのつながりで成り立っていることを強く感じ、感謝するようになったんです」

 この頃、理恵子夫人は「選手としてすごくいい時期も見てきましたが、恩義や感謝の気持ちを大切にし、人として成長した今の彼が一番好きなんです」と、人間・山瀬功治の変化をこんなふうに見ていた。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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