J得点王もレンタカー店勤務「環境的に厳しい」 清掃に事務も…人件費“5000万円”の現実

高知の秋田豊監督に「一緒に来て」の要望も
2025年から監督業に復帰し、高知ユナイテッドで指揮を執っている元日本代表DF秋田豊氏。運営規模の小さいクラブという意味では、自身が社長を務めていたいわてグルージャ盛岡の経験があったが、JFLからJ3に昇格したばかりのこのクラブはいわて以上に規模が小さい。新天地に赴いて、彼はその現実を目の当たりにしたのである。(取材・文=元川悦子/全6回の2回目)
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「グルージャは5~6億円くらいの売上はありましたけど、2024年にJFLを戦っていた高知は約2億円。J3に上がった今年は4億円が目標だと聞いていますけど、お金がないのは確か。地方クラブは地元だけではなく、首都圏の新規スポンサーを獲得するように努めていく必要がありますけど、そこまで手が回っていない様子。『僕が経営面も助けないといけないな』とまず感じましたね。山本(志穂美)社長と最初に会った時も『僕が持っているスポンサー企業のネットワークを紹介しますし、助けられるところはします』と話しましたし、1月に高知に行ってすぐの頃はスポンサー回りに同行することも結構あった。『一緒に来てほしい』という要望も多かったですね」と秋田監督は経営面にも目を配っているという。
山本社長は2024年4月から経営トップの重責を担っているが、もともとは熱狂的なサポーター。夫とともに立ち上げた輸入車販売会社が保有するアパートを選手たちに提供。目の前にある自宅で食事の世話もするようになり、”寮母”として長くクラブを支えてきた人物だ。その情熱とクラブ愛は凄まじいものがあるが、Jクラブの経営者としては経験が浅い。秋田社長がサポートできる部分は少なくないはずだ。
「僕が高知に行った時、クラブのフロントスタッフが6人しかいなくてビックリしましたね。グルージャも10人はいましたから。その後、9人に増えたものの、それだとどうしても営業を拡大したり、ホームタウン活動を広げたり、ホームゲームのイベントを展開したりということが難しくなってしまう。お金を投資していくこともクラブ拡大のためには必要なので、そういう話もよくしています。
グルージャの時には、僕のネットワークを生かしてJリーグ初代チェアマンの川淵三郎さんを呼んでシンポジウムを開催したり、元日本代表選手を集めてレジェンドマッチを行ったりもしました。高知でもそういうことをやっていきたいんですが、今はなかなか手が回らないようです。僕もシーズンが始まってからは現場の仕事に忙殺されているので、思うような手助けができていませんが、一緒になってクラブを大きくしたいと強く願っています」と彼は力を込める。

兼業プレーヤーは多数「環境的には厳しいと思う」
とはいえ、やはり本業は現場。就任が決まったのがギリギリだったため、スカウティングにはほとんど関わることができなかった。それでも、いわてで共闘していたDF深川大輔、FW水野颯太の2人を連れていく形を取り、現役時代の古巣・鹿島アントラーズから須藤直輝をレンタルで獲得。自分の人脈でその3人を加えて、新たなチーム作りをスタートさせたという。
「高知のトップチーム人件費は5000万円くらいで、J3の中でも最下位。J3参入に当たってプロ契約を最低5人は保有しなければいけないとなっていますが、5月31日時点でJ3得点ランキングトップに立っている(小林)心も働きながらプレーしているんです。彼の場合はレンタカー店に週2日程度勤務していますが、清掃業務や事務職に携わっている人間もいます。週何日働くかは選手次第ですけど、一部を除いてほとんどが兼業プレーヤー。それぞれ環境的には厳しいと思いますけど、一切、配慮はしていません。
練習は午前中ですけど、全員フルメニューをこなしてもらっています。高知の場合、グルージャと同じで決まった練習環境もクラブハウスもなく、春野総合運動公園の球技場や補助競技場、運動公園の芝生広場、高知県立青少年センターのグランドなどを転々としていますが、むしろいわてよりは恵まれていますね。いわての時は冬場になると雪の影響でほとんど外で練習できなかったし、長期間キャンプに行ったりしなければいけなかった。そう考えると、外でずっと練習できる今はありがたいですね」
高知という新たな一歩を踏み出したクラブを成長させていくためには、何事もポジティブに受け止めないといけない。そのあたりの辛抱強さを秋田監督は持ち合わせている。鹿島の黄金期を築き、2度のワールドカップ(W杯)を経験するなど、華々しい現役時代を過ごす一方で、引退後の人生は紆余曲折の連続だった。全国各地で働き、さまざまな環境を経験し、それを乗り越えてきたからこそ、そういったマインドになれるのだ。秋田豊という人物が高知のJ3元年の指揮官になったのは、ある意味、必然だったのかもしれない。(3に続く)
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。