「嫌われようとも」 築き上げたコミュ力の“源泉”…長友が認めた21歳が主将貫けた訳【コラム】
FC東京で21歳ながら主将を務めた松木玖生が海外移籍を決断
自らをコミュニケーション能力の“鬼”と呼び、その力を競う世界大会があれば「優勝できるんじゃないか、と思っている」と豪語する日本代表DF長友佑都が、一目置く存在がFC東京のチームメイトにいた。
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海外移籍を前提とした手続きや準備に入るため、13日のアルビレックス新潟戦をもってFC東京を離脱した21歳のMF松木玖生を、長友は「無限じゃないですか。彼の可能性は」と称賛。さらにこう続けている。
「みなさんも同じ思いでしょう。彼のサッカー選手としての実力もそうだし、人としての強さやパーソナリティーという意味でもそうですし、非常に楽しみですよね。日本サッカー界の宝なのかなと思っています」
ならばパーソナリティーの部分で、松木の“コミュ力”は自身が最強と自負するそれと比べてどうなのか。長友は「僕とはまた違ったコミュ力ですけどね」と前置きしながら、DF森重真人、MF小泉慶とともに共同キャプテンに名を連ね、今シーズンのFC東京をけん引してきた17歳も年下の松木へエールを送っている。
「僕のコミュ力はなかなか真似できないと思いますけど、彼は彼で芯の通った強さと男気といったものがあり、さらにそのなかに優しさがあるから(移籍先でも)受け入れられるでしょう。厳しさだけでは人はついてこないし、キャプテンはできないですよね。自分にも厳しく、周りにも厳しさがありながら優しさもある。彼がキャプテンを務めている理由というのは、そういう部分もあるんじゃないかなと思っています」
特異と表現してもいい松木のコミュ力は、どのようにして育まれてきたのか。
北海道室蘭市で生まれ育った松木は、兄が所属していた地元の室蘭大沢FCへ、6歳のときに加入している。当時から素質を高く評価され、年齢が上のカテゴリーで年上の選手たちに交じってプレーする機会も多かった。そうしたプレー環境が、本来のカテゴリーに戻ったときに松木へこんな思いを抱かせるようになった。
「自分が引っ張っていかなきゃダメだ」
松木のなかで自然と芽生えたリーダーシップは、津軽海峡を越えて越境入学した青森山田中の3年次にキャプテンを務めた1年間で、チームを束ねる責任感も加わりながらさらに磨かれていった。
松木が青森山田高へ進学した2019年。黒田剛監督(現・FC町田ゼルビア監督)は、教え子の一人であるMF柴崎岳(現・鹿島アントラーズ)が1年生だった2008年を思い出しながら、チームの次世代エースの証となる「7番」を託した松木へ「柴崎が1年生のときよりも、肝が据わっている」と目を細めていた。
「2年生や3年生に対してもまったく関係なく、ピッチの上では呼び捨てだろうが何だろうがどんどん仲間を鼓舞し、遠慮なく指摘できるのが松木のいいところですよね。ふてぶてしい部分がメンタルの強さとなって、ゴール前の守備や攻撃ではゴールというところまで、果敢にチャレンジできる長所も生み出している」
2年生になった松木はエースが背負う「10番」を拝命し、3年生ではキャプテンに任命された。一方で松木が入学してから、青森山田高が獲得した全国大会のタイトルは、1年次の高円宮杯JFA U-18サッカープレミアリーグ2019ファイナルだけ。全国高校選手権では2年続けて決勝で敗れていた。
最上級生を迎えた松木は、自身の高校生活を振り返りながら、心境の変化をこう語っていた。
「1年生のときはすごく自由にやらせてもらっていて、2年生になると個で勝負したい、という気持ちが芽生えてきたんですけど、3年生で迎えた最後の大会に関しては自分が犠牲になってでもチームを勝たせたい、という気持ちがありました。自分は全国の選手たちのなかでも、特に全国選手権で一番悔しい思いをしてきたので」
自分よりもチームを優先させる決意とともに、松木はチームメイトたちと「三冠を獲得しよう」と誓いを立てている。その第一関門となる2021年夏のインターハイ。準決勝で静岡学園、決勝では米子北を破り、青森山田として16年ぶりとなるインターハイ優勝を勝ち取った瞬間に、松木はピッチ上で人目もはばからずに号泣した。
キャプテンとして周囲に厳しさを求めながら、自らもかなりのプレッシャーを感じていたのだろう。その証が号泣する姿であり、常日頃から見せてきた姿との大きなギャップは、イコール、松木のなかに宿るナイーブさといっていい。このナイーブさには、長友が指摘した「優しさ」が顔をのぞかせた瞬間でもあった。
最終的に2021年は、コロナ禍でファイナルこそ中止になったものの、高円宮杯JFA U-18サッカープレミアリーグEASTを制覇。全国高校サッカー選手権では準決勝で高川学園を6-0、決勝では大津を4-0でともに大量得点で圧勝し、目標としていた三冠を達成した。松木が見せたキャプテンシーを、黒田監督はこう語っている。
「まるで監督やコーチのように、さまざまな局面で選手たちに対して厳しい言葉をかけていた。たとえそこにストレスが生じようとも、あるいは嫌われようとも、チームが勝つために犠牲心を持ってやってくれた。注目されるなかでもチームプレーに徹し、決して『自分が、自分が』とならないように自分をコントロールしてきたと思うし、そうしたキャプテンの姿を見て、みんなが必死についていく状況も生まれたと思っている」
松木の“優しさ”は選手権で注目された場面でも「その方へ向けたゴールという意味」
高川学園戦の後半12分。チームの3点目を決めた松木は、左腕に巻いていた喪章を取り外して国立競技場の空へ掲げ、両手を合わせながら目を閉じている。国見を全国屈指の強豪校に育てあげた名将で、準決勝前日に76歳で死去していた長崎総合科学大付属の小嶺忠敏監督へ、感謝の思いを捧げたと松木は試合後に明かしている。
「僕自身は直接的な関わりというものはなかったんですけど、これまで高校サッカーの歴史を切り開いてきた方であるので、その方へ向けたゴールという意味でした」
故人へ追悼の意を捧げる姿は大きな注目を集めた。これも松木が抱く優しさの一面といっていい。卒業後にそれぞれが異なる道を歩んでいったなかで、ヨーロッパや日本代表で百戦錬磨の経験を誇る長友が所属している、という天も理由のひとつにあげながらFC東京を新天地に選んだ松木は、入団時にこんな言葉を残している。
「自分は負けず嫌いですけど、それは選手ならば誰しも持っていると思うんですね。自分はそれ以上に熱いプレーヤーなので、ピッチ上で味方を鼓舞しながらFC東京を勝利に、チームが求めるリーグ戦の優勝に導きたい」
このコメントだけを捉えれば、リーグ戦を含めたタイトルをもたらせないまま、3年目のシーズン途中でFC東京を去る心境は複雑だったはずだ。それでもここまでの軌跡を、松木と同じ2003年生まれで、松木の最終戦となった新潟とのJ1第23節で惜別となるJ1初ゴールを決めたFW野澤零温は言う。
「一昨年からずっとそうですけど、彼はたとえ年齢が若くても、ベテラン選手と衝突しながらも、ずっとチームを引っ張ってきていた。同期としてすごく刺激になっていたし、彼がいなくなるのはすごく寂しいけど、僕も負けていられないという思いもある。切磋琢磨しながら、僕もチームを引っ張っていける存在になりたい」
松木の新天地はイングランド・プレミアリーグのサウサンプトンが有力視され、イギリスの就労ビザ取得の関係で、来たる新シーズンはトルコ1部リーグのギョズテペへ期限付き移籍するとされている。新潟戦を勝利で終えた後の国立競技場内の取材エリア。松木はキャプテンを務めた今シーズンへ、特に感謝の思いを捧げている。
「自分のサッカーキャリアのなかでもすごくいい経験ができたと思うし、この経験は必ず次に生きる。どこのチームにいっても、やるべきことは変わらない。しっかりとポジションを奪い、試合に出場して結果を出すだけなので、そこは地に足をつけてこだわっていきたい。これからは本当に自分との戦いになってくると思っているので」
前だけを必死に見すえる松木が残した、毅然とした立ち居振る舞いのなかに優しさも思い出していたからだろう。長友は「僕はベテランなのに彼にはいつも、本当に眠りにつけそうなくらいに包まれてきましたからね」と笑顔でエールを送った。文化も言語もすべてが異なる新天地でも、何が待っていようとも変わらないように。次に会うときは森保ジャパンで、という熱い思いも込められた、これ以上はない餞の言葉だった。
(藤江直人 / Fujie Naoto)
藤江直人
ふじえ・なおと/1964年、東京都渋谷区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後に産経新聞社に入社。サンケイスポーツでJリーグ発足前後のサッカー、バルセロナ及びアトランタ両夏季五輪特派員、米ニューヨーク駐在員、角川書店と共同編集で出版されたスポーツ雑誌「Sports Yeah!」編集部勤務などを経て07年からフリーに転身。サッカーを中心に幅広くスポーツの取材を行っている。サッカーのワールドカップは22年のカタール大会を含めて4大会を取材した。