なぜサポーターの居座りは起こる? 鹿島「IN.FIGHT」設立者を直撃、その始まりと”真意”

鹿島に声援を送るサポーター【写真:徳原隆元】
鹿島に声援を送るサポーター【写真:徳原隆元】

【識者コラム】「IN.FIGHT」設立者の河津亨氏の思い「クラブとサポーターは、一緒に『アントラーズを作っている』」

 5月13日には、試合後にACミランのサポーターと監督や選手がスタンドとピッチで話をする場面があった。日本でも、サポーターが試合後に居残ってクラブとの話し合いを要求したという場面が今シーズンもいくつか見られている。

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「敗戦に頭に来ているのなら、後半途中で帰ればいいじゃないか」という意見もあるが、そこには「選手たちの前にサポーターが諦めるわけにはいかない」というサポーター独特の美学も見える。

 たしかに、居座るという行為や、監督や選手、クラブ関係者をスタンドの前に呼びつけるという行動は、それ自体が暴力的に映る。だが、いろいろな国で起きている敗戦の後の破壊活動と、試合後のブーイングや居座りにはちょっと違ったニュアンスがありそうだ。

 実は、選手に対するブーイングはJリーグ発足前からあった。きっかけは1984年9月30日にソウルで行われた日韓戦で、蚕室競技場のこけら落としとして行われたこの試合に日本が2-1と勝利を収めると、試合後は韓国人の観客から自国代表チームに対して激しいブーイングが起きたのだ。

 その風景に衝撃を受けた日本のサポーターたちは、1988年10月26日に国立競技場で行われた日韓戦に敗戦を喫すると代表チームにブーイングを浴びせた。1990年イタリアワールドカップ(W杯)アジア1次予選で早々に敗退すると、当時の監督に対する辞任要求の署名活動も行われ、チームとサポーターの関係が冷え切っていた時代もあった。

 もっとも、実業団チームに対するブーイングは起きたことがなく、クラブに対するブーイングはJリーグ発足後になる。では、今の「居座り」はどのようにして始まり、どんな考えで行われていたのか。鹿島アントラーズのサポーターグループ「IN.FIGHT(インファイト)」の設立者であり、現在も名目上は代表を務める河津亨氏に話を聞いた。

「クラブとサポーターは、一緒に『アントラーズを作っている』という意識がありました。クラブの人たちも『地元の人たちとの関係を構築したい』という気持ちが前面に出ていて。だからよく僕は相談しにクラブハウスに行ってました。例えば、『紙吹雪を使った応援をしたい』という要望を出すと、『それだったら試合前に清掃の時間を作るよ』とか、いち早くスタジアムの中に横断幕の置き場を作ってくれたりとか」

鹿島アントラーズのサポーターグループ「IN.FIGHT(インファイト)」設立者であり代表を務める河津亨氏【写真:森雅史】
鹿島アントラーズのサポーターグループ「IN.FIGHT(インファイト)」設立者であり代表を務める河津亨氏【写真:森雅史】

スタジアムの熱狂度を保ち続ける手段の1つがクラブとの直接対話

 それでも、試合後にサポーターが居座ることはあった。

「僕が前に立っていたころは、負けたから、といって怒ったりすることはなかったと思います。サポーターが頭に来たのは選手の移籍に関しての話が多かったですね。『この選手はチームにとって必要なはずなのに、どうして移籍させるんだ』って。それで文句を言うことが一番だったと思います」

「ただし」と、河津氏は続ける。

「熱を持って応援していると、どうしても不満が出ることはあるんです。だから事前に『今日のみんなの怒りは止められないよ』とクラブに連絡しておいたりしました。そうすると、クラブ側も『だったら社長に説明に行ってもらうから』と準備してくれていたりしました」

 そして、スタジアムの熱狂度を保ち続ける手段の1つがクラブとの直接対話だった。

「熱狂度って抑えるのは簡単なんですよ。日本人って『止めろ』といえば止めちゃうんです。でも、サッカーにとって熱を持っていることはすごく大事じゃないですか。だから、当時クラブからは『事前に分かってるのだったらやめさせてくれ』ではなくて、どうやってみんなの熱狂度をしっかりと保ったうえ、で問題を解決できるかというのを考えてくれました」

 Jリーグ発足前、日本サッカーリーグ時代の最後は2部に所属していた企業チーム、「住友金属工業」が本田技研サッカー部から選手を補強して「鹿島アントラーズ」になった。地域の人々から応援してもらえるようになるための努力は大いにあったことだろう。それにはサポーターが果たした役割も大きかったはずだ。

 それでは、どうやって鹿島にサッカーの火が燃えさかるようになったのか。

 鹿嶋市出身の河津氏が地元にできるプロチーム、鹿島アントラーズに興味を持ったのは1991年、22歳の時。地元で「若者が行くバーは1軒しかなかった」という場所で選手たちと話す機会があり、そこから応援しようと心に決めたという。だが、当時の応援団は前身の住友金属の社員などが中心で、入れてもらうことができなかった。そのため自分でサポーターグループを作ろうと決心した。

 音楽活動もやっていた河津氏はさっそくバンド仲間と活動を開始し、「サポーター募集」と市内のいろいろな場所に貼り紙をして回った。河津氏が演奏していたパンクロックとサッカーは、本場イギリスで相性が良かったものの、プレー経験がなかった河津氏にはサッカーの知識がまだ多くなく、同時にいろいろな試合を見て勉強を重ねるとともに、仲間を募っていった。

新型コロナの影響もあり、サポーターとクラブが密接に話をできない状況はマイナス

 だが、当初障害になっていたのが「全ホームゲームが見られて1万円」というチケットを購入することだった。1試合あたりにすれば格安なのだが、Jリーグ発足前とあっては果たしてサッカーにそこまでの価値があるのかということをなかなか理解してもらえない。人数は次第に増えていったが、1993年5月16日のホーム開幕戦の時には約40人程度だったという。

「いろいろ駆けずり回って20人ぐらい集まったところで、初めて公民館で練習することにしたんです。ところが、その日祖母が危篤になってしまったんですよ。僕は元々『おばあちゃん子』だったので、すごく悩みました。僕が行かなければ、今日の20人はもう集まってくれないかもしれない。それで練習に行き、そこから病院に駆けつけました。祖母はギリギリ待っていてくれたんです」

 その時、病院で思ったことが河津氏のそのあとを決めた。

「その時『ここまでやったんだったら、もうとことんやろう』と思って。こんな思いをするんだったら、あの、やりかけたこと、途中で投げ出したら、うん、ちょっとかっこ悪いと思って。やれるとこまでとことんやってやろうと思ったんですよ」

 1993年5月16日の入場者数は1万898人。満員ではなかった。河津氏はそれからも試合ごとにスタジアムで若い人たちに声をかけていき、みんなで集まって応援の練習をして、鹿島のスタンドに熱狂を次第に作り上げていく。

 河津氏は1999年にゴール裏を退いて、鹿嶋市議会議員になった。現在で7期目、5月からは副議長を務めている。特に力を入れているのは、観光や祭り、そしてサッカー関連。今でも「IN.FIGHT」の代表を務めているのは「自分のあとを誰がやるかということで争いが起きてはいけないから」と言う。

「今は若い人たちに任せて自分は一切口を出していない」というが、SNSを通じて非難の声がどんどん届くそうだ。「選挙間近にサポーターたちがバス取り囲んだ時や、ツイッター見て『イン・ファイト』がトレンドワードに入っていた時は目がくらみましたよ。『やりやがった』って(笑)」。

「だけど」と、河津氏は続ける。

「今のサポーターは大変だと思います。新型コロナウイルスの影響もあって、クラブとサポーターが密接に話をすることができなかった。その間に運営会社にはいろんな人が入ってきて、地元と関係を作ろうと思ってもできなかったと思います。接点が少なくなっている中で、サポーターがクラブハウスに相談に行くような関係はなかなか築けないですからね」

 今のクラブに対する思いを聞くと、「僕たちは、地元の人たちがスタジアムにできる限り多く足を運べるように努力しますから、クラブはチームを強くしてください」という答えが返ってきた。そのままサポーターとしてのセリフと言ってもいい内容だった。

(森雅史 / Masafumi Mori)



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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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