頑固な若者から日本代表のリーダーへ 旧知の記者が見た“キャプテン”長谷部の原点

チームリーダーとして日本代表を牽引し続けてきた長谷部【写真:Getty Images】
チームリーダーとして日本代表を牽引し続けてきた長谷部【写真:Getty Images】

ルーキー時代の浦和でオフトが見出した長谷部の資質

 日本代表がロシア・ワールドカップ(W杯)決勝トーナメント1回戦でベルギー代表に2-3と壮絶な敗戦を喫した翌日、長谷部誠は代表からの引退を発表した。

 2010年の南アフリカW杯直前に岡田武史監督からキャプテンに任命されてから8年。2014年ブラジルW杯ではアルベルト・ザッケローニ監督、2015年アジアカップを戦ったハビエル・アギーレ監督、今回のロシアW杯を戦うチームを構築したバヒド・ハリルホジッチ監督、そして本大会を指揮した西野朗監督からも引き続き主将を任された彼は、チームリーダーとして代表を牽引し続けてきた。

 2002年に静岡県の藤枝東高からJリーグの浦和レッズへ加入した18歳当時の長谷部は、向こう見ずで頑固な男だった。高校時代にさしたる実績もないなかで、それでも彼は自分が最も能力があると抗弁し、当時浦和を指揮していた元日本代表監督のハンス・オフトに存在価値を示そうと躍起だったが、結局プロ初年度は一度も公式戦の舞台に立てなかった。

 当時の出来事で、鮮明に覚えているシーンがある。初めてサテライトリーグ(公式戦出場の少ない若手選手に実戦機会を提供することを目的に実施される試合)でベンチ入りした長谷部は、晴れの舞台で家族を試合に招待したが、オフトは彼に出場機会を与えなかった。この試合に出場できなかったのはフィールドプレーヤーの中で彼一人だけ。あまりの悔しさに、長谷部はロッカールームの外で声を上げて泣いていた。

 容赦ない仕打ちを与えたオフトはしかし、後にこう語っている。

「ハセには将来性がある。いつの日か、彼は日本サッカーに光を灯す選手になるだろう。だからこそ、今のこの時期に、彼にはすべてを知る必要があると判断した。試合に出られない選手の辛さ、チームを背負って戦うことの意味。ただピッチに立ってプレーするだけじゃない。私はハセに、そんな選手になってもらいたいんだ」

 オフトは、たとえベンチ入りさせなくても、プロ初年度の長谷部をすべての試合に帯同させ、翌2003シーズンからはチームの主力に据えた。この時から、長谷部は指揮官と信頼関係を築くことの重要性と、チームの柱として戦うことの責任と意義を感じ始めていたのかもしれない。

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島崎英純

1970年生まれ。2001年7月から06年7月までサッカー専門誌『週刊サッカーダイジェスト』編集部に勤務し、5年間、浦和レッズ担当を務めた。06年8月よりフリーライターとして活動を開始。著書に『浦和再生』(講談社)。また、浦和OBの福田正博氏とともにウェブマガジン『浦研プラス』(http://www.targma.jp/urakenplus/)を配信しており、浦和レッズ関連の情報や動画、選手コラムなどを日々更新している。2018年3月より、ドイツに拠点を移してヨーロッパ・サッカーシーンの取材を中心に活動。

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