「こんなおっさんに負けるわけが」→圧倒で相手が涙 朝鮮ルーツの伝説チーム…全国に刻んだ強さ

シニアサッカーでグランドスラムを達成した成田茂さん【本人提供】
シニアサッカーでグランドスラムを達成した成田茂さん【本人提供】

東京都内のシニアで無類の強さを誇った伝説のチーム

 シニアサッカー界で4大タイトルの獲得に成功した成田茂さん。在日朝鮮人としてのバックグラウンドを持ち、高校時代には北朝鮮に招待され5万人の観衆を前に試合を行う異色の経験をした。その後もサッカー人生の中心にあったのは自らのアイデンティティ。シニアのステージで“伝説のチーム”に参戦したことで、競技への熱量は増していくばかりだった。(取材・文=加部究/全3回の2回目)

【PR】日本人選手の活躍を毎節無料で!ABEMAでブンデスリーガ放送中!

   ◇   ◇   ◇

 東京朝鮮中高級学校高等部で黄金期を築いた成田茂(成炳茂=ソン・ピョンム)は、常にチームメイトだった1学年後輩の洪光洙(ホン・ガンス)とともにシニアサッカー界の4大タイトル完全制覇を達成した。

 高校時代には、日本の公式戦に出場することができなかった。しかし成田が3年生の夏休みには、当時の全国高校選手権を凌駕するような貴重な経験をした。北朝鮮の初代最高指導者・金日成(キム・イルソン)が還暦を迎えた記念に、東京朝鮮高校を招待して親善試合を組むことになったのである。

 初戦は首都・平壌(ピョンヤン)の5万人を収容する金日成競技場で行われた。まだ日本の全国高校選手権は大阪で開催されており「決勝戦でも観客が埋まるのはテレビ中継で映し出されるバックスタンドだけだった」(元浦和南高監督・松本暁司氏談)というから、桁違いの大舞台だった。

「北朝鮮には高校のサッカー部がなくて、優秀な選手たちは体育団と呼ばれるチームで活動していました。だから同年代のちょうど良い相手がなくて、2~3歳は上のチームを充ててきたんでしょうね。とにかく相手は体格も技術もプロみたいで、レベルが違いました」

 開始20分くらいで2ゴールを叩き込まれ、東京朝鮮のチーム内では「どうなっちゃうんだろう……」と不安が広がったという。

「でも後半は相手も4人くらいメンバーを代えて多少は手を抜いてくれたのか、2-2で分けることができた。2戦目は恵山(ヘサン)で21~22歳くらいの選抜チームと対戦して2-1で勝利。3戦目は元山(ウォンサン)で行い敗れましたが、黒いハンチング帽を被った相手GKが横っ飛びにセーブ。その時帽子が脱げて禿げ頭がバレたんです。『10代でハゲはいないだろう……』と呆れました」

 当初は3試合で帰国する予定だったが、平壌へ戻ると金日成主席の意向で1試合が追加され、最後は本当に高校生同士の試合だった模様で5-0と快勝。2勝1敗1分で終えた。

 ただし成田は破格の冒険を経て、日本で待つ父には悲報を持ち帰ることになる。

「僕には父が韓国で儲けた2人の兄と姉がいました。2人の兄は、それぞれせっかく九州大学、早稲田大学を卒業したのに、北朝鮮へ渡っていました。その次男とは現地で会えたのですが、せっかく九大で医学を学んだ長男が自死していたことを知らされました」

 激動の時代に複雑な家庭環境下に置かれながらも、成田は濃密なフットボールライフを明るく満喫した。だが反面、高校時代で燃焼し尽くした感覚もあり、進学した朝鮮大学ではサッカー部に入らなかった。

 社会人になっても途切れなくボールは蹴り続けた。しかし再び本物の情熱が沸き上がるのは、朝鮮大学や高校のOBを中心とする伝説のシニアチーム「高麗(こうりょう)サッカークラブ」に参戦してからだった。

「初めて日本一に挑戦できる。実力的には、きっと狙えると思いました」

 成田が加入した高麗SCは、東京都内のシニア(オーバー40)では無類の強さを誇った。2001年から2004年までは春夏を合わせてリーグ戦で6連覇を達成。ところが2001年、2003年は関東大会で敗れて全国行きを逃し、2002年は全国大会(日本スポーツマスターズ大会=当時)の準決勝で敗退した。そして2004年、既に成田は五十路を歩み始めていた。

「チームには同い年が4~5人はいたので、O-40としては超高齢でした。例えば関東大会で対戦した西湘ウィングスなどは、僕らより平均年齢で明らかに6~7歳は若くて『こんなおっさんたちに負けるわけがない』と思っていたはずです。実際スピードでは劣勢でした。でも僕らはサッカーの上手さで凌駕して勝利を手にした。相手チームは、まさかの敗戦に泣いていました。全国大会の決勝戦は兵庫県選抜と対戦して2-1の勝利。シニアのタイトル奪取が最も難しいのが競争相手も多いO-40だと思いますが、やっと50歳で実現。4歳下の後輩が泣いているのが視界に入り、僕ももらい泣きをしてしまいました」

 50歳で琴線を震わせる体験を経て、シニアサッカーに賭ける熱量は増していった。O-50では、高麗SCが一時消滅したため強化選手としてセレクシオン・トキオFCに加わり全国連覇(2005~06年)に貢献。2008年からは復活した高麗SCで3年連続全国大会のベスト4まで勝ち上がり、2010年には準決勝、決勝ともに1-1からPK戦を制して遂に優勝を飾った。

 高麗SCは、ひたすらテクニカルで、対戦相手からすると「憎らしいほどボールを回してくる」チームだったそうである。圧倒的なポゼッションを誇り、それでいてDFはしっかりとした1対1の対応ができて、サイドの選手たちは確実に目の前の相手を剥がせる。高校当時から日本国内では異質で、時代を先駆けるようなパフォーマンスを見せていた選手たちだからこそ、そこには明らかな優位性を保てていた。

 一方でピッチを離れても、成田は1994年から6度のワールドカップなど欧州のトップシーンの観戦を繰り返し、純粋に楽しむと同時に戦術的なアップデートも怠っていない。

「サッカーと巡り合えて本当に楽しい人生になりました。一緒にプレーした仲間はもちろん、サッカーを通じて出会った人たち、取り巻く環境……、とにかくサッカーには、良い思い出しかない。サッカー仲間たちは人生に多大な好影響を与えてくれたし、困った時には助けてくれた。すぐ下の弟(優=まさる)は、シニアに入ってからの各チームで、ずっと一緒にいて支えてくれました。今では兄弟、子供たち、婿、甥……、男たちが全員プレー経験を持つサッカー家族が出来上がっています」

 こうしてサッカー一色に染まった成田のシニアでの快進撃は、まだまだ終わらなかった。(文中敬称略、第3回に続く)

(加部 究 / Kiwamu Kabe)



page 1/1

加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング