北朝鮮の国籍取得「それでいいのか」 差別きっかけで出合ったサッカー…日本一を目指せなかった青春時代

シニアサッカーでグランドスラムを達成した成田茂さん【本人提供】
シニアサッカーでグランドスラムを達成した成田茂さん【本人提供】

シニアサッカーでグランドスラムを達成した成田茂さん

 40代から70代まで、各カテゴリーのシニア大会の制覇に成功する“グランドスラム達成者”が今年現れた。現在72歳の成田茂さん。在日朝鮮人の父を持ち、15歳で北朝鮮に国籍を変えた経歴を持つ人物だ。そんな成田さんのサッカー人生は、当時の時代背景から生じたとある事件を機に始まる。成田さんの原点に迫った。(取材・文=加部究/全3回の1回目)

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 シニアサッカーでグランドスラム達成者が誕生した。現在シニアの全日本大会は、オーバー(O)-40(=40歳以上)から、O-50、O-60、O-70と4つのカテゴリーに分かれて開催されているが、2026年、成田茂(成炳茂=ソン・ピョンム=朝鮮名)は常にチームメイトだった洪光洙(ホン・ガンス)とともにO-70全日本大会で優勝。これで4つのカテゴリーの完全制覇に成功した。

 実は成田にとって、全国制覇は「見果てぬ夢」だった。1954年、成田は韓国から日本に渡った在日朝鮮人の父と、日本人の母から生を受けた。ただし父は既に韓国で家庭を築き、二男一女を儲けていた。その後日本へ渡り母と出会うのだが、成田の戸籍には母の私生児と記され、14歳までは母子家庭の体裁で日本人として育った。

 しかし、差別が無自覚に横行していた時代である。父が在日朝鮮人だという噂は静かに広まり、近隣の子供たちとのいさかいが目立つようになる。ある時、瞼の近くを傷つけられたことで、父が加害者宅に押し掛ける事態に発展したこともあり、成田は小学2年生からは東京朝鮮第一初中級部学校初級部へ転入することになった。

 それは人生の基調を決定づける意味でも、成田にとって重要な転機だった。

「もともと野球少年でしたからね。転校しなければサッカーとも出合わなかったかもしれない。本格的に始めたのは中学生からですが、4年生頃からはボールを蹴るようになりました」

 日本のスポーツシーンが野球一色だったのに対し、北朝鮮ではサッカーが国技だった。まだ日本ではワールドカップの存在もほとんど知られていなかったが、成田が小学6年生だった1966年イングランド大会で、北朝鮮はイタリアを下してベスト8進出を遂げている。そして両国の対照を反映するように、日本でも朝鮮学校ではサッカーの人気が突出する別世界を形成していた。

「イングランド大会の記録映画『GOAL!』は映画館で観て、北朝鮮が制作した記録映画も学校の講堂で観せられました。中学2年時の夏休みには千葉で合宿が行われ、高校生の先輩たちが来て、いろんな基礎技術を教えてくれた。そんなことも含めて東京朝鮮は差別もないし、とても居心地が良かったんですよ」

 こうしてサッカーの魅力に引き込まれ始めた成田は、15歳で2人の弟とともに北朝鮮に国籍を変えた。

 父は「家族で日本人がお母さん1人になっちゃうけど、それでいいのか?」と疑問を投げてきた。

「でも母は『そんなことはどうでもいいよ。おまえたちがどこか遠くへ行ってしまうわけではなく一緒にいるんだから』と言うので、母と一緒に法務省へ行き申請をしました」

 東京朝鮮中高級学校高等部へ進学すると、本格的なフットボールライフが始まった。1年時は基本的に球拾いだった。しかし先輩の訓示が、心に深く響いた。

「球拾いをやっていても、サッカーは上手くならない。それなら早朝や全体練習が終わった後に自分でやるしかないぞ」

 成田は実直に行動に移した。空き時間の自主トレは着実に成果を生み、現在も変わらない流麗な技術の土台が固まる。

「1年生の頃は160センチで48キロ。身体も小さくてチーム内でも存在感がなく、先輩に名前を呼ばれるだけで涙が出るほど嬉しかった。それが2年生になったら、左右で自在に蹴れるようになったことで、主に左ウィングとしてレギュラーに定着することができました」

 まだ朝鮮高校には、日本の公式戦への道が開かれていなかった。だが成田の3年時は、東京朝鮮高校史上でも屈指の強さを誇った。

「僕が3年時のチームは、朝鮮高校の全国大会も圧勝したし、東京選抜との定期戦は6-0と最多得点差で勝ちました。3年生への進級を控えた3月には、直前の全国高校選手権を制した習志野が来てくれて、全校生徒が見守る前で試合をしました。僕のアシストから1学年下のガンス(洪光洙)が決めて2点目。僕も3点目を決めて3-1で勝ちました。テレビのニュースに出ていたことは、近所のパン屋のおばちゃんから聞いて知りました」

 成田が高校3年生に進級した1972年、北朝鮮では初代最高指導者の金日成(キム・イルソン)が還暦を迎える。そして東京朝鮮高校は、同国から招待を受け現地で試合をすることになった。

 日本に住み、日本で育ちながら、日本一は目指せなかった。しかし高校最後の夏休みに、大冒険が待っていた――。(文中敬称略、第2回に続く)

(加部 究 / Kiwamu Kabe)



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加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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