地方クラブの残酷「J3に落ちますよ」 時代を先取りした“3-3-3-1”も…直面した宿命「どうしようもなかった」

甲府と富山で直面した地方クラブの現実
ジュビロ磐田U-21監督兼U-18監督を務める安間貴義氏は、指導者として24年もの長いキャリアを持つが、順風満帆のまま進んできたわけではない。ヴァンフォーレ甲府とその後のカターレ富山での監督時代には、地方クラブの宿命に直面した。それも安間貴義という指揮官が形作られるかけがえのない時間に。当時の苦闘の記憶を辿る。(取材・文=いしかわごう/全7回の4回目)
【PR】日本人選手の活躍を毎節無料で!ABEMAでブンデスリーガ放送中!
◇ ◇ ◇
2008年、J2降格による大木武の退任に伴い、安間貴義はヴァンフォーレ甲府の監督に就任する。コーチとして培った戦術論を、今度は自らの責任のもとでJリーグのピッチに具現化する戦いが始まった。
「最初から11人でサッカーをしていると決めつけるからよくないんですよね」
甲府の練習終わりのある日の囲み取材で、安間がそんな風に語り始めたことがあった。
「どうやったらピッチ上で、1人多い12人でサッカーをやっているように見せられるかなって。配置と運動量、相手にサイドチェンジをさせない守り方……そんな組み合わせを考えていたら眠れなくなって、気づいたら朝になっていたんです」
世界中の戦術家がピッチに配置する11人の最適解に頭を悩ませるなか、安間は1人多い人数でサッカーをする発想で戦術を模索していた。もちろん、実際のピッチに1人多く立たせるわけではない。あくまで相手に「1人多い」と錯覚させるような戦い方を深夜から大真面目に考えていたのだという。そして気づいたら一睡もせぬまま朝になり、グラウンドに立ってこの日の練習を指導していたのだという。
戦術ボードを使いながら、そのアイデアと構想をこちらにも丁寧に解説をしてくれたのだが、ぼんやりとしか理解できず、頭の中に「?」マークを浮かべるしかなかった。ただJリーグの世界にそんな発想の監督がいるのだと思うと、面白くてたまらなかった。安間貴義とはどんな指導者かと考えるとき、自分はこの出来事をいつも思い出す。
もっとも、甲府時代は理想と現実の狭間で苦悩する日々でもあった。
安間が志向するスタイルと、クラブが獲得してくる選手のプレースタイルの間には小さくない乖離が存在していた。その折り合いをつけながらJ1復帰を目指すチーム作りとなっていたからだ。
「僕は『なぜならば』の理由を、ピッチ上に作りたい人間なんですよ。ただ望む、望まないは別として、その選手たちを使って僕は答えを出さなきゃいけない。クラブは真ん中に大きい選手ばかりを獲ってくるので、サイドからのクロスを多めにする形にシフトしました。選手たちも逃げずにやり切ってくれたと思います。甲府のときは監督として大人の仕組み、クラブという組織の現実を味わいながら、少しずつ大人になっていきましたね」
監督就任2年目の2009年シーズン、甲府はJ1昇格争いのデッドヒートを繰り広げ、最終節まで可能性を残していた。運命の最終節、ハーフタイムの時点で甲府はロアッソ熊本にリード。一方で、昇格枠を争う湘南ベルマーレがアウェーで0-2とリードを許しているという情報が入っていた。スタジアムは色めき立つ。だが、後半に湘南が逆転勝利を収め、甲府はわずか勝ち点「1」及ばず、昇格を逃してしまう。これにより5シーズンにわたった大木&安間体制も終焉となった。
なお大木と安間から指導を受けた当時の選手たちの中には、現在も活躍している顔ぶれも少なくない。
例えば安間が初めてキャプテンに指名した山本英臣は、46歳になった今でも現役を続けているクラブレジェンドだ。安間体制1年目にプロデビューを飾った吉田豊は、その後ステップアップし、36歳となった現在もJ1・清水エスパルスで奮闘している。
大木時代に主力を担った林健太郎と須藤大輔は、それぞれガイナーレ鳥取、横浜FCを率いている現役のJリーグ監督である。両者とも甲府時代に受けた指導の影響は大きかったと公言しており、当時のエッセンスを少なからず受け継いでいるようにも感じる。
異色なのは、大阪体育大学からセレクションで甲府に入団してきた御厨貴文だろうか。現役引退後は審判に転身し、Jリーガー出身のトップレフェリーに上り詰めた。安間は甲府とカターレ富山で選手時代の御厨を指導している。
「ミクはスピードがあったし、ジャンプ力もありました。でも怪我が多かった。審判をする姿を見ながら『お前、肉離れしないか。大丈夫か?』っていまだに心配しています(笑)。でも、ああやってサッカー界から離れないのは嬉しいですよね」
甲府を退任した安間は、2010年からカターレ富山のコーチに就任する。その後、14年までは監督も務めた。予算も選手層もごく限られた地方のクラブだったが、そこで安間が展開したフットボールはマルセロ・ビエルサの戦術から着想を得た奇抜な布陣[3-3-3-1]だった。中央に3枚のブロックが3段重ねで縦に並ぶ特殊な陣形だったが、質の高いサイドバックがいない状況下で、いる選手の特徴を踏まえて編み出した戦い方だった。
現在でこそグアルディオラによって、「ピッチを縦に5分割してレーンを捉える」という考えが一般化しているが、当時は最終ライン、中盤、前線という「横の並び」で捉えられがちだった。しかし安間は、当時から左、中央、右という「縦の3分割」でピッチを捉えていた。
「ピッチの前に向かって進むんだから、縦に区切って考えるのが普通だろうと思っていました。甲府時代、相手の監督が『うちは中盤が4枚で、(甲府は)4-3-3の3枚だから、中盤を支配できる』って言ったんですよ。僕は『サッカーは横じゃなくて、縦に進むんだから関係ない』って思っていましたね」
富山で採用していた[3-3-3-1]システムでは、中央が強固に塞がれているため、対戦相手は手薄に見えるサイドのスペースを狙ってくる。だがボールが相手の右サイドに入った瞬間、2列目のアタッカー、右ボランチ、右センターバック、そして最前線の1トップまでもが猛烈なスピードで同サイドへスライドする。手薄なはずだったサイドエリアには、瞬く間に縦に4人の選手が並び立ち、相手のサイドアタックを前後から挟み込んでボールを強奪するという仕組みだった。
「相手が一般的な4-4-2なら、サイドに人数をかけてきても3枚。こちらは一瞬で4人が密集するから、不利に見えるサイドで確実に数的優位が作れる。ほかのチームなら1人がアタックして1人がカバーするところを、うちは2人同時にボールを奪いに行く」
当時、そんな風に説明してくれたのを覚えている。かつて話していた、1人多く相手に見せる発想はここにつながるのかと腑に落ちた記憶がある。
守備に関しても、後ろを同数にしてでも敵陣からアグレッシブにプレッシャーをかけ続けた。自陣に引いて4-4-2のブロックを整えるゾーンディフェンスが主流で、戦力の劣るチームが前から奪いに行くのは「リスクが高い」と一般的ではなかった時代だ。
「当時はゾーンを組む守備が『モダン』とされていて、前からボールを奪いに行く守備は『時代遅れ』みたいに言われていたんです。でも僕は前から行かせていたし、後ろも同数で守らせていた。今のヨーロッパの最先端はみんな前から行くし、後ろも数的同数で守りますよね(笑)。それに後ろでダラダラと横パスを回しているくらいなら、相手の最終ラインにどんどん仕掛けろと選手に言っていました。後ろで安全なパス回しをしていたって、お客さんは増えない。リスクを冒して前に奪いに行くからこそ、見ている人に楽しんでもらえる」
限られた戦力ながら4年連続でJ2残留を果たし続けたが、限られたクラブ規模の中でチーム作りを継続する難しさにも直面した。育てた選手たちは、毎年のように資金力のあるクラブに引き抜かれていく。中島翔哉のように、我慢強く柱として起用し続けた若手が、保有権を持つFC東京にシーズン途中でレンタルバックされていくこともあった。
「ショウヤ(中島翔哉)をはじめ、『主力を4人抜かれたらJ3に落ちますよ』ってフロントには伝えたけれど、クラブの規模を考えたらどうしようもなかった」
3シーズン連続の赤字になるとクラブライセンスが剥奪されるため、存続させるためには主力選手を放出しなければならない事情がクラブにもあった。それでいて、常に勝敗を問われるのがフットボールの世界でもある。当時の経営状況を含めての結果だったが、予見していた残酷な結末を防ぐことはできなかった。複数人の主力が同時にチームを去ったシーズン、富山はJ3降格の悲運を味わうこととなる。
選手の個性を活かすための甲府での現実的な妥協。縦のレーンで相手を凌駕しようともがいた富山での日々。どちらも痛みとともに幕を閉じたが、あの苦闘の記憶もまた、安間貴義という指揮官を形作るものとなっていった。(文中敬称略、第5回目に続く)
(いしかわごう / Go Ishikawa)

いしかわごう
いしかわ・ごう/北海道出身。大学卒業後、スカパー!の番組スタッフを経て、サッカー専門新聞『EL GOLAZO』の担当記者として活動。現在はフリーランスとして川崎フロンターレを取材し、専門誌を中心に寄稿。著書に『将棋でサッカーが面白くなる本』(朝日新聞出版)、『川崎フロンターレあるある』(TOブックス)など。将棋はアマ三段(日本将棋連盟三段免状所有)。

















