王国の衝撃に「これがサッカーだよな」 玉田圭司氏が伝説の一戦で見た原点…呼び覚ました「本気で遊ぶ」

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:玉田圭司(名古屋グランパスコーチ)第1回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。20年前のドイツW杯、玉田圭司は逆転でのグループステージ突破を狙うブラジル戦でスーパーゴールを奪った。しかし、日本は逆転負けで敗退が決定。失意に沈むなか、玉田はブラジルの“楽しむ”プレーに心を奪われていた。王国のプレーが呼び覚ました、玉田の原点にあるものとは――。(取材・文=二宮寿朗/全5回の1回目)
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あれからもう20年が経つ。
2006年6月22日、ドイツW杯、ブラジル代表とのグループステージ第3戦。日本代表は前半34分、初先発のレフティー玉田圭司が躍動した。
前半34分だった。中田英寿から受け取ったパスを稲本潤一に渡して前へ向かう。左サイドの三都主アレサンドロがドリブルで中へ向かう動きを見て、巻誠一郎とスイッチするようにペナルティーエリア内のスペースに出てラストパスを呼び込む。その刹那、左足で放った強烈なシュートはニアハイを突き刺した。日本代表史に残る名ゴールシーンの一つである。
46歳になった玉田は名古屋グランパスでコーチを務め、2年目を迎えている。
あの時、日本は2戦終わって1分け1敗。グループステージには前回王者のサッカー王国に対して2点差以上での勝利が必要だった。試合当日にジーコ監督からスタメンを告げられている。20年前の記憶は、今も鮮明に残っている。
「だったら、もう開き直ってやろう、と。ブラジルとワールドカップでやれるなんて、こんな機会ないじゃないかって。ゴールを奪うことができて、自分のなかではある程度やれた感覚はありました。でもそれ以上に凄い選手たちがいた。当時のブラジルはチームとして成り立っていないみたいな評価をされていたけど、まったくそんなことなかった。一人ひとりが楽しそうにやっていて、ロナウジーニョなんて笑っていましたから。本気で遊ぶというか、自分たちが楽しむことはもちろんだけど、お客さんを楽しませて、敵である自分でさえも魅了した。『これがサッカーだよな』と思いました。
このマインドでサッカーをやっていけば、もっと自分をうまく見せることができるなとも感じました。ブラジルは自分の個性を消さないでピッチで表現できる。技術は大事なんだけど、そのメンタルを持つことが大事なんだなって」
開き直った先に奪った自分のゴールよりも、それによって目を覚まして4発のゴールを叩き込んだブラジルのプレーに心を奪われた。
本気になってサッカーを楽しんで、そのマインドをピッチに落とし込んでアイデアとアドリブを生み出し、その集合体がセッションとなるから素晴らしい音色が奏でられる。ひいてはそれが観ている者の心をつかむことができる――。
ただ玉田にとってそれは新たな発見ではなかった。むしろ己の原点にあるものを猛烈に呼び覚ましてくれたような感覚に近かった。
フットボーラーとしての基礎を築いたカネヅカFC時代
中学時代にさかのぼる。
千葉・市川にあるカネヅカFCへの入団は、フットボーラーとしての基盤をつくる大きな出会いとなった。半面のグラウンドで3対3、4対4、5対5などの練習が多く、個人技を磨ける環境にあった。
「面白い先輩たちがたくさんいました。ある先輩に『サッカーをやっていて何が一番楽しい?』と聞かれて『ドリブルかな』って返したら、『そうだよな。ドリブルがなかったら面白くないよな』と。その会話はずっと心に響いていて、ドリブルで運ぶ、さらすというのは自分のプレーに絶対、なきゃならない要素。パスだけじゃなくてドリブルを織り交ぜていくから、サッカーは面白くなる。指導者になってからも、そこは大切にしています。カネヅカの環境は僕に合っていたし、もともと自分が持っていた考えを固めてくれました」
中学を卒業するとカネヅカで指導してくれたコーチのいる千葉の習志野高校に進学する。福田健二、廣山望を擁して1995年のインターハイを制した屈指の強豪校に、彼らと入れ替わりでサッカー部の門を叩いた。
カネヅカに続いて、「必然的な」出会いとなる。個を育てる指導法で習志野を強くした本田裕一郎監督のもと、固まっていたものが進化していくような感覚を得る。
「ここも大きなターニングポイントではありました。サッカーは勝つ以上に、得られるものがあることを教えてもらえましたから。本田先生から直接言われてはないですけど、間接的にそう言われているような……。みんなの個をチームとして活かせていましたし、チームメイトとの信頼感が深まって和もつくっていけた。本田先生はああしろ、こうしろと縛りつけない人なので、おかげでのびのびとやらせてもらいました」
当時の部活動は一般的に苦しかった思い出とセットになりがちだが、玉田には「楽しかった」しかない。本田のもとグングンと才を伸ばしていくことができた。1年生のころから試合に出場し、無名だった左利きのドリブラーはその名を千葉内に広めていく。柏レイソルの強化指定選手として呼ばれ、サテライトリーグにも出場。習志野高の同期には後にプロ入りを果たす吉野智行、菅野拓真らもいた。楽しいからサッカーそのものに集中でき、仲間と切磋琢磨して高めあう。だからこそ強くなっていくことができた。
ライバルの市立船橋には西紀寛、松田正俊、羽田憲治らタレントがひしめき、公式戦で一度も勝てないまま最後の高校選手権千葉県予選に臨んだ。決勝でぶつかることになったが、負ける気はしなかった。1-1の拮抗した展開が続くなか、6年ぶりの全国切符をもぎ取る決勝ゴールを奪ったのが玉田であった。
受動的ではなく、自分たちで能動的に取り組んできた姿勢で市立船橋の壁を最後の最後に超えた経験は、かけがえのない財産になったことは言うまでもない。
中学、高校時代から時を経て、日本代表の一員としてW杯の大舞台に立つまでになった。
運命は一本線でつながっていた。
ブラジルの強さの本質にある“本気で楽しむ”というマインドは、背景こそ違えど玉田が培ってきた根幹である。
自分は本気でサッカーを楽しめているか――。
ブラジル相手にゴールを決めたからではない。自分の大切にしてきたものをあの大舞台でくすぐられたという意味で、何よりも忘れられない一戦となったのだ。(文中敬称略/第2回に続く)
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。













