日本代表10番と「大学受験で前後の席」 プロ経験なし→J1監督…“偵察”出身の異色キャリア

大分新監督の四方田修平氏「名波は同世代を代表する選手ですし、リーダー的存在」
自身3つ目のJリーグクラブとなる大分トリニータで新たなキャリアを踏み出すことになった四方田修平監督。2026年のチーム作りが注目されるところだが、その前段階として52歳の新指揮官の人物像を改めて知っておく必要があるだろう。(取材・文=元川悦子/全7回の2回目)
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四方田監督は1973年3月生まれ。サッカーを始めたのは、横浜市で小学校に入学したタイミングだった。そこで出会ったのが、元日本代表FW岡野雅行(現浦和ブランドアンバサダー兼南葛SC事業本部長)だ。
奇しくも岡野が1997年11月に行われた1998年フランスワールドカップ(W杯)アジア最終予選の第3代表決定戦・イラン戦で決勝弾を挙げた“ジョホールバルの歓喜”のとき、四方田監督は偵察部隊の一員としてチームに帯同していた。
「僕は小学校2年のときに横浜から千葉に引っ越したんですが、横浜のチームに岡野くんがいたんです。当時の彼は、足は速かったけど、大人しい感じの子(笑)。僕の母親が彼のお母さんが師範を務める書道教室に通っていた縁があって存在は覚えていましたけど、あの浦和レッズの岡野くんとつながるまでには少し時間がかかりましたね。
その彼がジョホールバルで歴史的なゴールを決めたので、本当に感慨深かった。僕もその場にいましたけど、(ラルキン)スタジアム全体が青で染まっていて、異様な雰囲気でした。そのピッチで戦っている選手たちは本当にすごいとリスペクトを持って見ていた記憶があります」
28年前の出来事を鮮明に覚えている四方田監督。その大一番でエースナンバー10を背負い、1998年フランスW杯の大舞台にも参戦した名波浩(日本代表コーチ)も順天堂大学でともにプレーした仲間である。
「実は名波とは僕が最初に順天堂大学を受験したとき、前後の席だったんです。自分は結局、一浪することになったので1学年下になりましたけど、習志野高校の同期だった仲村浩二(尚志高校監督)が名波と同期だったこともあり、先輩後輩の縦関係もあまりない感覚でつきあわせてもらいました。
名波は同世代を代表する選手ですし、リーダー的存在。ピッチ内外での人望もすごくあったし、みんなをまとめるのに長けていた。自分が後輩を集めて食事をごちそうするとか、本当に面倒見のいい男でしたね」
約35年前に思いを馳せた四方田監督。ご存じの通り、名波コーチは目下、森保一監督とともに日本代表を支えるキーパーソン。四方田監督は2025年10・11月シリーズの活動を外から見る機会に恵まれ、久しぶりに同い年の仲間と意思疎通を図った。
「横浜FCを離れた後にしばらく代表チームの練習見学をさせてもらったので、彼とは久々に話しができました。今、森保さんと名波はすごくいい関係でやっていると思いましたし、それがチームが機能する大きな要因になっているとも感じました。
森保さんは名波をはじめとして、他のコーチを立てながら、任せるところは任せ、自分自身が仕切るところは仕切っている。そのバランスが絶妙で、非常にいい学びになりました。名波もコーチとして腹をくくってボスを支えている。そういう姿を見て、コーチングスタッフの良好な関係性の大切さも再認識させてもらいました」
四方田監督が学生時代に出会った同期のなかで、大きな刺激を受けたもう1人の人物が、先にも名前が出た仲村監督である。習志野高校時代にユース代表入りした逸材は、高校サッカーの名将として活躍。四方田監督もコンサドーレ札幌ユースを長くけん引してきたため、いい仲間でありライバルだったはずだ。
「仲村浩二は中学時代に関東選抜のキャプテンを務めていて、関係者から注目される存在でした。当時は市船の全盛期。僕としては『あそこはちょっと厳しいかな』と感じて、習志野を選んだつもりだったのが、仲村が習志野に来たことで、その年の千葉県選抜のほとんど全員が集まった。すごいメンバーのなか、本田裕一郎先生(現国士舘高校テクニカルアドバイザー)の下で切磋琢磨しましたね。
当時の高校サッカーはまさに脂っこい青春時代(笑)。四六時中サッカー漬けで、本田先生もけっこう厳しかったので、大変でした。ただ、当時の習志野はしっかりボールをつなぎながら魅力あるサッカーをして、全国でのし上がっていこうとしていた。そこは僕自身もすごくやりがいがありました。
ただ、そういうなかで高校3年の自分に与えられたのは、相手のエースをつぶす仕事。つまり『スッポンマークをしなさいよ』という感じですね(苦笑)。最後の選手権で名波をマンツーマンする役割を視野に入れ、直前4か月はそういう練習をしていました。実際の対戦は叶いませんでしたが、高校時代の一番のこだわりでした。
ライバルの市船が、名波率いる清水商との対戦でワッキー(お笑いコンビ・ペナルティの脇田寧人)が名波のマンマークを指名され、ガッツリ行ってるのを映像で見て、とても羨ましく感じました。結局、自分は選手権では優勝できず、ベスト8止まりでしたが、仲村のような個性や力のある選手たちと一緒にサッカーできたのは僕の財産です」
四方田監督自身がこう述懐する通り、自身はプロを目指せるようなレベルではなかったようだ。順天堂大学の後、筑波大学大学院行きを選んだのも、「指導者としてサッカーを支える立場のほうが合っている」と感じたからだろう。
実際、筑波大学に進み、田嶋幸三氏(前日本サッカー協会会長)の研究室に入ったことで、日本サッカー協会の指導者養成・トレセン活動の手伝いをする機会にも恵まれたのだ。それが日本代表との関わり、偵察部隊の一員としての活躍へとつながっていくのである。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。













