「柏を逃げ出した曺くんだ」目の前で浴びた侮辱 浮かべた笑み…形づくった“闘争心”

京都を率いる曺貴裁監督【写真:徳原隆元】
京都を率いる曺貴裁監督【写真:徳原隆元】

京都の曺貴裁監督、浦和時代に浴びた侮辱「レイソルを逃げ出した曺くんだ」

 日本サッカーの大改革となったJリーグが1993年に幕を開けたというのに、創設メンバーの浦和レッズは年間最下位に沈んだ。かつて日本代表を率いた森孝慈監督が指揮を執ったのだが、前期に当たるサントリーシリーズも後期のニコスシリーズも腰の砕けた試合を繰り返し、両シリーズ合わせて8勝28敗という散々な成績に終わった。(取材・文=河野正)

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 開いた口がふさがらない数字ばかりが並んだが、36試合で総失点78という“ざる守備”にはがっかりさせられた。アマチュアに毛の生えたほどのもので、ワースト2位のジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)より11点も多く、得失点差マイナス52は市原のほぼ3倍というのだからあきれる。

 森監督は1993年をもって退任し、代わって同じく日本代表を指導した横山謙三監督が立て直しの下命を受けることになった。

 1993年12月16日の就任会見で、「来季はいろいろな角度から手直しが必要だが、このチームは守備に大きな問題を抱えている。特にストッパーだ。GKは安定しているので、2人のストッパーがしっかりすればやれると思う。重要度で言えば得点力向上も同じだが、緊急度なら守備の改善となる。今は補強が急務。能力の高い選手を獲得しなければならない」と述べ、守備のてこ入れに重点を置く方針を示した。

 機能不全からの脱却を期待されたひとりが、ジャパン・フットボールリーグ(JFL)1部の柏レイソルから加入したDF曺貴裁だ。

 曺は早稲田大学を卒業した1991年、柏の前身である日本サッカーリーグ(JSL)1部の日立製作所に入社し、JSL最終章となった1991-92シーズンを戦った。1992年と1993年はJFLに所属。粘り強く忠実な守備には定評があった。

 柏は1992年にJリーグ準会員となり、1993年のJFLで2位以内に入ればJリーグ参戦となったのだが、5位で昇格を逃してしまう。

 曺は日立でも柏でも守備の要人として絶大なる存在感を示し、1993年のJFLでは全18試合に出場。ファイティングスピリットをむき出しにし、勇ましく立ち回るプレーを身上とした。これこそ、1993年の浦和の守備陣に欠落していたものといえる。

 開幕を2週間後に控えた2月27日、浦和はベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)とプレシーズンマッチを行い、曺はセンターバックでフル出場し2-1の勝利に貢献した。横山監督は「曺を補強したのは正解だ。なかなかの出来だった」と及第点をつけ、ニンマリした。

 当人も「柏ではJリーグに上がろうと勝つことだけを意識し、プレッシャーを感じながらやっていたんです。でも浦和には自分のプレーを冷静に見つめられるだけの環境があるので、この先も持てる力を出し切っていきたい」と新天地でのモチベーションは全開だった。

 チームは1月17日に練習をスタートさせたが、曺は合流していなかった。クラブが加入を発表したのが2月1日だ。平塚とのプレシーズンマッチから3日後の3月2日、浦和はJFLの富士通(現川崎フロンターレ)と練習試合を行った。

 中2日でもうトレーニングマッチ? といぶかる向きもあろうが、当時のJリーグは毎週水曜日と土曜日に試合があり、中2日と中3日で試合をこなす過密日程が組まれていた。開幕10日前なら、このハードなスケジュールに慣れるための“予行演習”はぜひものだったのだろう。

 試合会場となった浦和の練習場は、玄関の両脇にプラスチック製の長いすが2つずつ置かれていた。記者の待機所でもあり、監督や選手に話を聞いたりすることもあった。試合前、曺はピッチから向かって右側の椅子に腰掛け、スパイクの紐を結んでいた。

 そのとき、ユニフォームに着替えた富士通の選手が玄関から出てくると、「あっ、Jリーグに入りたくてレイソルを逃げ出した曺くんだ」とからかい、数人が冷笑した。軽口にしても言葉に出すのは大人の振る舞いとは言い難く、すぐ目の前で聞いていた私は不快な気持ちになった。

 日立も富士通も1992年のJFL一期生だ。曺は1部で2シーズン戦ったことで、富士通の選手をよく知っていた。冗談にしても聞き流すには少々悪質な言葉が飛んできた。しかし曺は笑みを浮かべながら、彼らを一瞥すると無言のままウォーミングアップに向かった。

 森監督の在任中から移籍を打診されていた。クレバーでいて、闘争心をむき出しにしたタイトな守備が高く評価されていたからだ。「力を貸してほしい」。早大の先輩であり、日本代表をワールドカップ出場にあと一歩のところまで導いた名将の誘いだ。Jリーグで勝負したいという功名心に駆られるのは自然だし、自らの力を試すには格好の機会でもあった。

 移籍はJリーグきっての人気クラブで脚光を浴びるためでも、レイソルを逃げ出したわけでもない。

 横浜マリノス(現横浜F・マリノス)との開幕戦で、曺はサンフレッチェ広島から移籍してきた田口禎則とセンターバックを組んでフル出場。0-2で敗れはしたが、指揮官は「ちょっとしたところでやられただけ。思ったよりいい守りができた」と評した。

 曺は屈強な門番として前期は22試合中21試合に先発する。ワールドカップ・イタリア大会を制したドイツ代表DFギド・ブッフバルトが7月に加入すると、後期は3バックに変わり曺は左ストッパーを担当。18試合でスタメンに名を連ねた。

 1995年の前期は26試合中20試合に先発。リーグ2番目に少ない34失点の堅陣を支え、1年遅れで“ざる守備”の改善に手を貸した。

 色黒でこわもてとあり、若手は近寄りがたかったそうだ。だが、1994年に高卒で加入した斎藤豪人は、「最初はめちゃくちゃ怖いイメージでしたが、気さくに声を掛けてくれたし、ふたりで自主トレしたときもいろいろ教えてもらった。すごく優しく接してくれました」と回想する。

 湘南や京都サンガF.C.の監督に転身してもゴールを挙げるたび、勝利が決まるたびに派手なガッツポーズをつくる。勇敢だった現役時代そのものだが、「柏を逃げ出した」といわれのない侮辱を浴びても、一顧だにしなかった。あの態度こそ、この男を形づくってきた闘争心の発露ではなかったろうか。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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