新潟での10年間「本当に印象深い」 上位争い、降格も経験「いろいろ思う」…最高の相棒は「エジミウソン」

矢野貴章にとっての最高の相棒
日本代表として2010年の南アフリカ・ワールドカップにも出場し、ドイツ・ブンデスリーガのフライブルクでプレーをしたFW矢野貴章。41歳になった今でも現役を続ける大ベテランのキャリアについて話を聞いた。第6回はアルビレックス新潟で過ごした計10シーズンについて。(取材・文=元川悦子/全8回の第6回目)
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2025年でプロ23年目を迎える41歳のストライカー・矢野貴章。彼のキャリアの中で最も長く所属したクラブが、合計10シーズンを過ごしたアルビレックス新潟だ。
最初の在籍は2006~2010年夏まで。鈴木淳監督(山形明正高校監督)が4年指揮し、その後は黒崎久志監督(青島西海岸監督)がバトンを引き継いだが、彼にとっては日本代表入り、海外移籍をつかみ取ったステップアップの場となった。
当時の新潟を振り返ってみると、2006年はJ1で14位、2007年は6位、2008年は13位、2009年は8位、そして2010年は9位。常に中位以上はキープしていたことになる。そのチームを矢野はエースFWとしてけん引していたのだ。
「特に僕の記憶に残っているのが、2009年ですね。3トップをやって攻撃力の高いチームだったんで、面白いシーズンではありました。最後に失速しちゃって、優勝争いには絡めませんでしたけど、前半戦はかなりいい戦いができていたと思います。天皇杯もベスト8まで行ったし、手ごたえはありました」
矢野がこう話す2009年の新潟というのは、ペドロ・ジュニオール、マルシオ・リシャルデス、大島秀夫(横浜F・マリノス監督)という計算できる攻撃陣が揃っていた。中盤は大黒柱の本間勲(新潟トップコーチ)、松下年宏がコントロール。守備陣にも千代反田充、内田潤ら安定感のあるプレーヤーがいた。19歳の川又堅碁(沼津)や鈴木大輔(千葉)、17歳の酒井高徳(神戸)も頭角を現しつつあり、タレント力はJ1屈指だったと言っていい。
「大輔も堅碁も高徳も当時は若手だったんで、そこからブレイクした感じですけど、本当にいい選手がいましたね。バランスもすごくよかったと思います。シーズン前半はペドロ・ジュニオールがいて、彼が夏に抜けちゃったんですけど、彼がそのまま最後までいたら、もっと上の順位で終われたかもしれない。新潟自体もすごく盛り上がっていた印象ですし、僕自身もそこから南アフリカワールドカップ(W杯)につなげていくことができた。思い出深い年ですね」と本人も神妙な面持ちで言う。
4年半の第1次新潟時代には、エジミウソンという最高のパートナーと共演する機会にも恵まれた。
「新潟に最初に移籍した2006年と2007年に2トップを組んだエジミウソンはやりやすかったですね。お互いのいい部分を出し合えたいい相方でした。彼はゴールハンターというか、ゴールに近いところでプレーして、僕はその周りを動いてチャンスメイクする形が多くて、やっていてすごく面白かった。あれだけお互いの良さを引き出し合える関係性はなかなか作れない。そういう意味でも僕は有難かったです」
充実した時間を過ごした新潟からW杯出場という悲願を達成。そこからドイツ・ブンデスリーガのフライブルクへ挑戦権を得たのは前に触れた通りだ。ドイツでの1年半は不完全燃焼に終わり、2012年に再び新潟に戻ってくることになった。
同年の新潟は黒崎久志監督の新体制でスタートしたが、成績不振で5月に辞任。6月からは矢野の浜名高校の先輩・柳下正明監督が後を引き継ぎ、立て直しを図った。メンバー的には同世代の大井健太郎(イースタン・ライオンズ)、菊地直哉(鳥栖トップコーチ)、少し年下の東口順昭(ガンバ大阪)、三門雄大(FC今治)、田中亜土夢(FCコーテーペー)らが中心だったが、矢野自身は思うように自分らしさを出せなかったという。
「27歳でドイツから帰ってきて、チームをリードしなければいけないという責任を感じながらこのシーズンは戦っていました。でもドイツでの後悔から立ち直れない状態で、ずっとそれを引きずったまま1年間を過ごしていたんで、納得いく仕事はできなかった。チームにも申し訳なく感じていましたね」
メンタル的に難しい時期を過ごしていた矢野。結局、お世話になったクラブを1年で離れることになり、2013年は名古屋グランパスへ移籍。そこから4年の期間を経て、2017年に再び新潟へ戻り、3年間プレーした。
アカデミー時代を過ごしたわけでもないクラブに、完全移籍という形で3度も在籍するというのはかなり珍しいこと。それだけ新潟に縁があったということだろう。
「2017年に当時の強化部長だった神田勝夫さん(新潟医療福祉大学教授)から声をかけていただいて、『もう一度、新潟でやれるチャンスがあるんだったら、力になりたいな』という思いで移籍しました。
その年の新潟はフミさん(三浦文丈=横浜FC監督)体制でスタートしましたけど、最終的に17位でJ2に落ちてしまった。そこから2年間はJ2でのプレーを余儀なくされましたけど、J1に上げられなくて悔しい思いをしましたね。いい時も悪い時も過ごしたという意味では本当に印象深いクラブ。どのチームも思い入れはありますけど、長かった分、いろいろ思うところはあります」
その新潟から離れて早いもので6年が経過した。彼が栃木で自己研鑽を続けている間に、新潟は松橋力蔵監督(FC東京監督)体制で2022年J2で優勝。2023年に6年ぶりの最高峰リーグに返り咲き、2024年にはYBCルヴァンカップ決勝まで勝ち進んだ。今季は非常に厳しい状況に置かれてはいるが、古巣の動向には常に目を向けているようだ。
「今年は成績があまりよくないですけど、J2からJ1に上がっていく中のサッカーだったり、昨年のルヴァン決勝の躍進ぶりは、本当に素晴らしいなと思いました。やってるサッカー自体も魅力的だった。ただ、ルヴァン決勝であと一歩のところでタイトルを逃した姿を目の当たりにして、『優勝って簡単にはできないんだな』と感じましたね」
そう語る矢野自身も実は一度もJリーグでタイトルを獲得していない。日の当たる道を歩いてきたようにも見えるが、彼のキャリアは山あり谷ありなのだ。そういう中で地道に力を蓄えた新潟での日々はやはり貴重。10年という月日の重みを彼はしっかりと受け止めているはずだ。(第7回に続く)
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。





















