現地で実感するジョッタの悲劇「どうやって耐えている?」 喪失感を埋めるため…港町が愛した“チャント”

リバプールファンのお気に入りだった2人のNo.9
2021年11月に配信されたビートルズのドキュメンタリー映画『ゲット・バック』をご覧になった方はきっと、20世紀が生んだ最大のロックバンドのメンバー4人が即興で演奏しながら新曲を作る様子に驚かれたと思う。
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しかも作詞も即興で、その場であれこれ言いながら言葉を当てはめていた。あんなやり方で数々の名曲が生まれたなんて驚きだ。素晴らしすぎる。まるで魔法の現場だった。
ところが実はこれは英国人の得意技なのだ。まず歌が大好き。そして気に入ったメロディーがあればそこにどんどん自分が歌いたい事柄を詰め込んで、替え歌を作ってしまうのである。
この才能がフットボールの応援にも活かされる。そう、チャントはこうした英国人の「替え歌文化」の賜物なのだ。
ちなみに筆者の妻もこの替え歌の名人だ。彼女は愛犬をネタにしていろんな替え歌を作って歌う。「今日はチキンかビーフ? それは見てのお楽しみ!」なんて言葉を、スティーブン・ジェラードのチャントで使われる名曲「ケセラセラ」のメロディーに乗せて、歌いながら餌をあげる。
そんな替え歌大好きの英国人が作るチャントの中には、時折ものすごい傑作が生まれる。この数年のリバプールでは、2人のNo.9選手のチャントがサポーターの大のお気に入りになった。
まずはクロップがプレミアリーグを制した黄金の3トップの中央で究極の偽9番となったロベルト・フィルミーノのチャントがその1。1990年にアルゼンチン歌手のフィト・バエスがリリースした曲が元歌で、ラテンの香りがするノリの良いメロディーと「シー・セニョール! ボビーにボールを渡せばゴールが決まる!!」という楽天的な文句が見事に一体化して、スタンドを明るく盛り上げた。
そして最近ではディオゴ・ジョッタのチャントが一番人気になっている。元歌は1969年にアメリカの著名なフォークロック・バンド「クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル」(通称CCR)がリリースした「バッド・ムーン・ライジング」という曲である。
原曲にはブルースの香りがして少々奇妙でダークな印象もあるが、これがジョッタのチャントになると、ストレートで、ひたすら明るい歌になる。まるでヒーローアニメの主題歌のような感じなのだ。もちろんそのヒーローはディオゴ・ジョッタだ。
特に素晴らしいのが「He’s a lad from Portugal, Better than Figo don’t you know?」というくだりだ。
「ポルトガルから来たあいつはフィーゴよりすごいんだぜ! 知らないのかい?」
この2行にはリバプール人特有のお茶目さと傲慢不遜さが込められていると思う。
ルイス・フィーゴといえば、その後別格となったクリスティアーノ・ロナウドを除けば、間違いなくポルトガル史上最高選手。その名前をぬけぬけと出して”俺たちのディオゴのほうがすごいんだ”と歌う。しかしそう歌う心には、ジョッタを誇りに思う強い気持ちと深い愛情が込められている。
その選手がピッチに立っていなくても、フィルミーノとジョッタのチャントは常に歌われる。サポーターたちがいつも歌いたくて仕方がない、そんな素晴らしいチャントなのだ。
フットボーラーとして全盛期を迎えるところだった
7月3日、そんな傑作チャントとともにリバプール・サポーターが心底愛したジョッタが逝った。
まさに青天の霹靂というしかない交通事故だった。この報道を見て瞬間的に「誤報ではないか!? 誤報であってくれ!」と自分に問いかけた人が無数にいたに違いない。筆者の場合もそうだった。とても信じられないという思いに支配されて、素直に報道を受け入れることができなかった。
しかし、頭ではこんな重大な死亡記事が誤って報道されるはずがないということも分かっていた。英国中のありとあらゆるメディアが一斉にこのニュースを流していた。
その見出しには「ジョッタ死亡」の後に「結婚式からわずか10日後」「妻と3人の幼い子供を残して」という言葉が続いた。いたたまれない気持ちに拍車をかけた。しかも実弟のアンドレが車に同乗して兄のディオゴとともに死亡したという。ジョッタの両親は息子2人を同時に亡くしてしまった。
悲劇という言葉が陳腐に聞こえるほど、酷い死亡事故だった。残された家族にとっては、まさしく幸福の絶頂から地獄の底に突き落とされるような出来事になった。家族の激痛を感じ、悲鳴が聞こえてくるかのような錯覚さえ起こった。
あまりにも理不尽で説明がつかない事故だった。もしもあの日、あの時、世界中の人間の中でも最も死になくない人間がいたとすれば、ジョッタは間違いなくその一人に数えられたに違いない。
ジョッタはパンデミックで開幕が1か月遅れ、移籍期間も10月上旬まで伸びた2020-21年シーズン開幕直後の9月19日にウォルヴァーハンプトンからリバプールへ移籍して来た。当時24歳だった。そして2季目の翌2021-22シーズン、9か月先にチームに加入していた一つ年上の南野拓実を抜き去り、不動のレギュラーだったフィルミーノも追い抜き、3トップ中央のポジションを奪うと、リーグ戦35試合に出場して15ゴールを決めた。その後怪我に泣き、以後3シーズンにわたって出場時間を減らしたが、それでも「20番をつけたあいつがチームに勝利を呼び込む」とサポーターが歌った抜きん出た決定力を発揮し、勝敗を左右するゴールを奪い続けた。
1996年生まれの28歳。これからまさにフットボーラーとしての全盛期を迎えるところだった。怪我さえしなければ来季のリバプールの屋台骨を背負うストライカーとなって活躍しただろう。チャントのように、文字通りフィーゴと肩を並べる偉大なポルトガル人フットボーラーとなるための第一歩を示すシーズンになったかもしれない。
私生活でも13歳の時に知り合い、16歳から恋人となり、現在までに3人の子供に恵まれたルーテさんと先月6月22日に結婚式を挙げたばかりだった。
本当に死んではならない人間だった。リバプール全体がその痛ましい死に甚大なショックを受け、大きく深く沈んだのも無理もないことだった。
こうした非業の死は人間の心を壊す。巨大な悲しみに襲われながら、なぜこんなことが起きるのだと、答えのない残酷な疑問のループを頭の中で生み出してしまう。
サポーターの心にも大きな穴が空いた
筆者が暮らす北ウェールズの小さな村はリバプールの文化圏に含まれる。というわけで、顔見知りのレッズ・サポーターも多い。そんな彼らと顔を合わせる度にお互いが悲痛な表情になり、ジョッタの話をした。
スティーブはリバプールのシーズンチケットホルダーで、3年ほど前、愛犬の散歩中に「アンフィールドの記者席に座っていないか?」と話しかけられて以来、村の中ですれ違う度にフットボール談義を交わす仲になっていた。
先週の金曜日、この時も愛犬の散歩中だったが、会った瞬間、いつもはにこやかなスティーブの表情も慟哭で歪んだ。彼もまたジョッタを愛した多くのリバプール・サポーターの一人として嘆き苦しんでいた。
「How are you holding up yourself?」
これがスティーブの第一声だった。「どうやって耐えている?」というニュアンスだ。そして「本当に酷い、酷すぎる」と、誰に語るでもなく自分自身に呟くように言葉をつないだ。
今回の悲劇はこれが誰の身にも起こり得るという畏怖も同時に拡散させた。スティーブは「運転する人間は常に死と隣り合わせだということを改めて思い知ったよ」と言った。こうした恐れは悲しみとともにどうしようもない無力感を生み、ブラックホールのような虚無を人間の心に作る。
こうしてがむしゃらにフットボールを心底愛する多くのファンが、人間の命という、普段の自分を命知らずのように勇ましくするこの素晴らしいスポーツよりも大切だという厳然たる事実を目の前に突きつけられ、ただただ喪に伏すしかなくなった。
約30分間、この50代後半の紳士と足を止めて話した。愛犬が怪訝そうな顔をして我々を見上げたが、筆者とスティーブの真摯な声色を察して、大人しくそこに座り続けていた。
スティーブと言葉を交わして強く思ったのは、みんなが今回の悲劇をどうにかして乗り越えたいと思っているということだった。みんながその方法を自問自答しながら手探りで探している。クラブは正しい対応をし続けている。ジョッタのチームメイトのほぼ全員がポルトガルに飛んで葬儀に出席した。サラーは行かなかった。けれどもそれは宗教上の問題だった。イスラム教徒の中にはサラーがキリスト教の葬儀に出席するものを問題視する者もいた。敬虔なイスラム教徒で知られるサラーはそんなことで「チームメイト以上の存在。本当の友だった」と語るジョッタの葬儀に雑音が生じることを許さなかった。
しかし、この大きな悲しみが癒えるには時間がかかる。ディオゴ・ジョッタという選手を愛したリバプール・サポーターは今、全く予期しなかった理不尽な死のショックと悲しみの大きさにただただ呆然としているのだ。

リバプールのプレシーズンマッチではジョッタのチャントが歌われた
こうした中、ジョッタの悲劇を無視するかのように時は流れ、リバプールの選手団は7月7日に開始するはずだったトレーニングを1日だけ遅らせて、今季のプレシーズンに突入した。
そして7月13日にリバプールの北東約80キロの位置にあるプレストンで早くも親善試合を行った。リバプールの公式ウェブサイトで配信された試合直前、スロット監督のインタビューが流された。
「はじめに言っておかなければならないのは、確かに今回の事故は我々に大きな衝撃を与えた。しかしそれは彼の両親、妻のルーテ、彼の3人の幼い子供たち、そして残りの彼の親族に与えた衝撃と比べれば全く比較にならないということだ」と、一年目のプレミアデビューシーズンでリバプールをイングランド王者に導いた46歳のオランダ人知将は厳かに語り始めた。
本当にその通りだ。一ファンでさえ今回の唐突すぎる悲劇を目の当たりにして、全く不意に人間の死という重く巨大な難問に向き合わなければならなかった。とてつもない悲しみと痛みとともに、暗い心の迷路をさまよった。しかし家族の心痛を思えば、その嘆きも抑制できる。
一部の報道では、ルーテさんは極度のショックと心労のため、呼吸困難に陥り、心拍数にも異常をきたし、その想像を絶するストレスで肉体の健康も蝕まれているという。
わずか1シーズンだけではあるが、スロットはジョッタの指揮官となったことでそんな家族の極限の慟哭も間近で目撃して、このインタビューの間でも、その衝撃に必死に耐えているように見えた。
一言一言、本当に絞り出すように語っていた。この試合の前日、クラブがジョッタの20番を永久欠番にしていた。
「これで我々の心に彼を留めて、我々がどこにいようと、これからも彼と一緒にい続けることができる。本当に今は困難な時で、何をするか、何ができるか、我々はその都度その都度、真剣に議論している。その中でも彼の20番を永久欠番にしたことは、良いことができたことの一つだと思っている」
親善試合のスタンドは満員だった。特にアウェー席は真っ赤に染まった。そしてサポーターはジョッタのチャントを“これでもか”というほど、何度も何度も大声で歌い続けた。
3ゴールが生まれた。ブラッドリーが至近距離から押し込み先制して、ヌニェスが相手のバックパスに飛びつき2点目を奪い、ガクポがダメ押しの3点目を決めた。
この3つのゴールが決まった瞬間だけ、サポーターがいつものように喜びを爆発させた。その瞬間だけはジョッタも一緒に喜んでいるとでもいうように。
サポーターは試合が終了してもジョッタのチャントを歌い続けていた。
Oh, he wears the number 20
(20番を背負ったあいつ)
He will take us to victory
(あいつが勝利を呼び込むんだ)
And when he’s running down the left wing
(左サイドを駆け上がり)
He’ll cut inside and score for LFC
(中央に切れ込みLFCのためにゴールを決める)
He’s a lad from Portugal
(ポルトガルから来たあいつ)
Better than Figo don’t you know?
(フィーゴよりすごいんだぜ、知らないのかい?)
Oh, his name is Diogo
(あいつの名前はディオゴ)
ジョッタ本人も大好きなチャントだった。「この歌を聞くと燃える」と言っていたチャントだ。すると誰に言われることもなく、アウェー席の前にリバプール選手団が整列して、チャントに合わせて手拍子を始めた。そうしてから5分以上もチャントが繰り返された。天に届けとばかりに、何度も何度も、ものすごい大声で、サポーターたちがジョッタの歌を唱えていた。
もちろん、まだまだこの悲しみや喪失感、虚無感を埋めるには時間がかかる。しかしこうして大声でチャントを唱えれば、そこにリバプールの永遠の20番となったジョッタが一緒にいるようだ。
今季の結果? それは語らないでいいじゃないか。今はこうして、一つのゴール、一つの勝利を積み重ねる度に、ジョッタのチャントを大声で歌えばいい。
今はただそうすることで、ジョッタの不在に耐え、悲しみを少しずつ癒し、今ここで生きている自分の人生を感謝しよう。
今季のリバプール選手と今回の事故で心を痛めた全ての人の健康と幸福を祈るとともに、ジョッタの冥福を心から祈りたい。
(森 昌利 / Masatoshi Mori)
森 昌利
もり・まさとし/1962年生まれ、福岡県出身。84年からフリーランスのライターとして活動し93年に渡英。当地で英国人女性と結婚後、定住した。ロンドン市内の出版社勤務を経て、98年から再びフリーランスに。01年、FW西澤明訓のボルトン加入をきっかけに報知新聞の英国通信員となり、プレミアリーグの取材を本格的に開始。英国人の視点を意識しながら、“サッカーの母国”イングランドの現状や魅力を日本に伝えている。





















