J助っ人遅刻に呆れ「やっぱり来てない」 さぼり常習、年齢詐称発覚も…「憎めない」リーグ席巻の悪童【コラム】

圧倒的な決定力を誇ったブラジル人エメルソン【写真:徳原隆元】
圧倒的な決定力を誇ったブラジル人エメルソン【写真:徳原隆元】

圧倒的な決定力を誇ったブラジル人FWエメルソンの自由奔放なキャラクター

 世界にあまた存在するサッカークラブは、そこに生きる人々の存在意義を表す象徴とされるほど、地域と密接に結びついている。チームに声援を送るサポーターたちは、サッカーゲームにおける勝利を地域の勝利と考え、幸福や達成感に浸るのだ。

【PR】ABEMA de DAZN、明治安田J1リーグの試合を毎節2試合無料生中継!

 ボーダレスとなった現代においては、チームを構成する選手の顔触れは多国籍になっている。しかし、サポーターにとって選手はプロ、アマチュアを問わず、そしてどんなレベルのカテゴリーで戦っていようとも仲間であり、また憧れの存在であることに変わりはない。

 当然、選手はさまざまなタイプの人間がいる。なかには個性的で常識という物差しでは測ることができない異端児もいる。1993年から始まったJリーグでも、その歴史を紐解けば、常識や道徳などに捉われない選手がプレーしていた。

 2005年1月30日、リーグ開幕前に浦和レッズはサポーターたちとの交流の場として、さいたまスーパーアリーナでレッズフェスタを開催した。観客席を埋めた多くのサポーターたちに見守られて、名前をコールされた選手たちが次々とセンターステージへと入場して来る。そして、進行係が「やっぱり来ていない」と紹介し、サポーターたちも諦観したように怒ることもなく、その行動に笑ってしまう選手がこの時の浦和には所属していた。

 その遅刻常習犯の選手の名はマルシオ・パッソス・ジ・アルブケルケ。日本ではこの本名よりエメルソンという偽名の方が広く人々に知られているだろう。

 進行係が言ったように、エメルソンは選手合流の日時を守らず、このシーズン前のイベントにも参加していなかった。彼が合流に遅れることは、もはやシーズン開幕前の珍しくない風景となっていたのだ。

 エメルソンは2000年にコンサドーレ札幌に所属し、そこから川崎フロンターレを経て01年の後半に浦和へとやって来た。彼の最大の武器である爆発的な瞬発力から生まれるドリブルは超高速で、迎え撃つ相手守備陣を切り裂き、シュートはゴールネットを揺らした。

 カメラのファインダーに映った猛然とゴールへと殺到するエメルソンは、ピューマのように俊敏で迫力があった自分の技術に絶対の自信を持ち、すべてを1人でやってのけようとするプレーは、チームスポーツであるサッカーにおいては、必ずしも正しい思考とは言えない部分もある。だが、そうした独善的なプレーも、攻撃を活性化させチャンスを作り出し、ゴールまで決めてしまうのだから周囲も認めざるを得なかった。

 当時の浦和は攻撃面ではエメルソンが圧倒的な存在感を放っていたが、攻守に渡ってレベルの高い選手が揃っていた。エメルソンは徐々にそうした味方との連係を高めていき、個人技だけでなくチームプレーにも磨きをかけ、より効果的な攻撃を繰り出せるようになっていく。その結果、03年にリーグMVP、そして04年にはリーグ得点王を獲得することになる。

さまざまな問題を起こしながらも結果で批判ねじ伏せた助っ人

 タイトル獲得からも分かるように、エメルソンがピッチで見せたプレー技術は誰もが認めるものだった。だからといって、先にも彼の振る舞いを述べたが、エメルソンがサッカー選手としての手本となる人物であったわけではない。遅刻、さぼりが常習化し、プロ選手としてのあるべき姿の追求に邁進するようなタイプではまったくなかった。

 合流期限を守らないことから始まり、チームメイトだった岡野雅行氏(現・ガイナーレ鳥取GM)も語っていたが、なにかと理由をつけて練習をさぼった。

 家の前の電柱が倒れて外に出られない。見たこともない動物がいて練習に行けない。

 話は少し逸れるが1996年、雄大な自然が残るブラジルのアマゾンとパンタナールへ撮影に行ったことがある。そのときガイドを務めてくれた人物が「信じてくれなくてもいいが頭だけで人の身長ほどある蛇を見たことがある」と話してくれた。百歩譲って、ブラジルのアマゾンならまだしも、日本の首都圏でエメルソンが言ったような見たこともない動物が生息しているとはとても思えない。

 そうした、普通の人間では考えられないような突拍子もない理由をつけて練習をさぼるのだから、怒るよりも呆れてしまう。

 そして、エメルソンという偽名を用いた年齢詐称も発覚する。

 こうしたさまざまな問題を起こしながらもエメルソンには、「もう仕方ない」と監督、スタッフ、そして仲間の選手が彼に対して道徳や常識を求めることを諦めさせる、どこか憎めないところがあった。なにより自由奔放な振る舞いから起こる批判をピッチで結果を出すことでねじ伏せて見せた。そうした圧倒的な活躍が、彼の常識離れした行動を可能にしたのだ。

(徳原隆元 / Takamoto Tokuhara)



page 1/1

徳原隆元

とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング