長谷部誠が追い続けた日本代表キャプテンの“理想像” JFAに懇願したい将来へ伝えるべき振る舞い【コラム】

長谷部誠は40歳で現役生活に別れを告げた【写真:Getty Images】
長谷部誠は40歳で現役生活に別れを告げた【写真:Getty Images】

突然の日本代表キャプテン就任から南アW杯で示した名主将の風格

 2002年に藤枝東高校から浦和レッズ入りし、ヴォルフスブルク、ニュルンベルク、フランクフルトでプレー。2023-24シーズン限りで現役生活にピリオドを打った長谷部誠。すでにドイツでは4月17日にドイツ語で引退発表会見を行っていたが、「自分を長く支え、報道してくれた日本のメディアに対しても礼節を尽くさなければいけない」と生真面目な男は考えたのだろう。

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 帰国直後の5月24日に都内で開いた会見は2時間に及び、「手を挙げた記者の質問はすべて受ける」くらいのスタンスで1つ1つ丁寧に回答した。最後には「僕はメディアのみなさん泣かせな部分もあったと思う」と“異例の謝罪”までしてみせた。自分のことを「真面目」と本人は言っていたが、本当に真っ直ぐな男なのだと再認識させられる幕引きの場だったというしかない。

 2010年南アフリカワールドカップ(W杯)直前のイングランド(グラーツ)との親善試合で、26歳だった彼を日本代表キャプテンに抜擢した岡田武史監督の眼力には恐れ入る。

「キャプテンに関しては、(本番まで)あと2週間になったので、ずるずると今までのムードとか流れを引きずるわけにいかないので、ここで1回、流れとかムードを変えるために長谷部にしました。長谷部はこのチームの中堅としてチームを引っ張っていく存在。みんなが信頼している選手ということと、リーダーシップを取れるところがあるので、彼にしました」と指揮官は指名した理由をこう語ったが、戸惑ったのは本人だ。

「試合前に言われましたけど。僕もビックリしましたけど、キャプテンは別に誰がやってもいい。そんなに特別なことができるわけじゃないので。僕はゲームキャプテンですし、ただマークを巻いているだけですから」と当日の長谷部は努めて冷静に振舞っていた。

 それでも、上に最年長の川口能活(ジュビロ磐田GKコーチ)を筆頭に前任者の中澤佑二(解説者)、中村俊輔(横浜FCコーチ)らがいて、下にも本田圭佑、長友佑都(FC東京)ら自己主張の強い若手が揃っている。さすがの長谷部も気を遣うことばかりだったに違いない。

 数日が経過したザースフェーでの練習後に「キャプテンに向いているのではないか」と筆者が問いかけた際にも「いや、僕、ほとんどやったことないので。中学時代までしか」と苦笑。「自分がキャプテンじゃない時からもっともっと自覚持ってやらないといけないと感じていたし、自分がキャプテンじゃなくてもキャプテンをうまくフォローしなきゃいけないのかなと感じましたけどね」とも話していて、必死に平静を保とうとしている様子が色濃く伺えた。

 この抜擢が大きな契機となり、岡田ジャパンは浮上の兆しを見せ、本大会初戦でカメルーンを撃破。オランダには敗れたものの、デンマークに勝利してグループを突破したのはご存知の通りだ。ラウンド16ではパラグアイにPK負けしたが、試合後の長谷部の立ち振る舞いは実に堂々としていた。

 ミックスゾーンに現れた彼はまず何重もの人が気になっていた記者を見て「前の人が大変ですから押さないでください。僕は大きな声で喋りますからうしろの人も聞こえますから大丈夫です」といきなり発言。一瞬にして場が整然となったのだ。歴史的敗戦を喫した直後にここまでの気配りができる男はそうそういない。この時点で長谷部は名キャプテンの風格を漂わせていたと言っていい。

 そしてアルベルト・ザッケローニ監督体制では正式なキャプテンに就任。2014年ブラジルW杯後のハビエル・アギーレ、バヒド・ハリルホジッチ、西野朗という指揮官たちも長谷部のキャプテンを変えようとはしなかった。

 もちろん、各チームには、苦境に直面した時期があった。時にハリルホジッチ監督時代は指揮官のエキセントリックな性格も相まって、選手たちからも不満の声が噴出。お世辞にも雰囲気がいいとは言えない時期もあった。キャプテン・長谷部も30代に突入。絶対的な立場を築いてはいたが、「流れを変えるためにも、もう少し若い人にキャプテンをさせてもいいのではないか」といった意見もチラホラ聞かれるようになった。

 それでも、長年の盟友・川島永嗣(磐田)は「マコに代わるキャプテン? 年齢的にはオカ(岡崎慎司)もいいと思うけど、マコのハードルは高いですよ」と絶対的信頼を口にした。常に自らを律し、チームにも苦言を呈することのできるリーダーというのはそう簡単には見つからない。川島はそう言いたかったのだろう。

「日本代表キャプテンになってから、本当に多くの方に注目していただきました。やはり自分の人となりもそうだし、サッカー界のリーダー、シンボルになるべきというイメージを持っていたので、自分も多少、そこに寄せていく部分もあった。キャラクターも少し変わったと思います」

 本人も引退会見でこう話したが、理想的な統率役になるべく、人知れず努力を重ねていたということなのだろう。W杯3大会、8年間も重責を担い続けた人物は日本サッカーの歴史の中では彼1人。そのことを長谷部は「誇り」と言い切ったが、本当に大変な役割を長年にわたって遂行したことに最大級の賛辞を贈るべきである。

長谷部の振る舞いを将来へ―前を向くリーダーの偉大さを伝えるべき

「どうあがいても長谷部誠にはなれない」と後任キャプテン・吉田麻也(LAギャラクシー)も涙ながらにコメントしたが、そんな偉大なリーダーにも苦しんだ時期があったという。それはヴォルフスブルクでフェリックス・マガト監督から塩漬け状態にされた2012年夏からの3か月間だ。

「移籍問題が起きてクラブに残ることになり、トップチームで練習させてもらえないこともあった。それでも代表キャプテンとして背中で見せないといけなかった。ピッチでいいプレーをしていなければ、説得力がない。そこは感じていて、自分の中ですごく悩んでいました」と彼は改めて苦い日々を述懐した。

 そういった環境にあっても、当時の長谷部は決して弱みを見せなかった。代表に来るたび「試合勘は大丈夫か?」「コンディションは保てているのか?」と報道陣から聞かれていたが、毅然とこう回答したのだ。

「試合に出ていないので、みなさんが心配してくれるのも分かりますけど、自分もプロを11年やってきて、試合に出ていない時ももちろんあった。試合勘というのは多少、ズレることもあるかもしれないけれど、それを経験でカバーしなければいけないと思います。代表は調整の場ではないし、結果を出すところなので。それで結果を出せなければ選ばれないだけだし、それは自分の中でクリアになっています」

「心を整える」というベストセラー本が出て間もなかった頃でもあり、本当に心が整っている回答だと痛感させられたが、挫折や苦しみの中でもブレずに前を向き続ける強さも彼は備えていた。そこも今のキャプテンである遠藤航(リバプール)、今後のリーダーになるべき人材には受け継いでほしい部分だ。

 代表キャプテンだった長谷部の言動を1つ1つ分析検証し、若い世代にフィードバックしていくといった講習や座学を行ってもいいのかもしれない。この男の歩んできた足跡や立ち振る舞いは何らかの形で残しておくべきであろう。ぜひとも日本サッカー協会にはアクションを起こしてほしいものである。

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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