森保監督解任→“代打指揮”は「頭になかった」 “運命”のあの日、元JFA技術委員長は何を考えた?【独占インタビュー】

反町康治氏が森保一監督との4年間を振り返った【写真:FOOTBALL ZONE編集部】
反町康治氏が森保一監督との4年間を振り返った【写真:FOOTBALL ZONE編集部】

反町康治氏が悔やむ新型コロナ禍による無観客試合での東京五輪…無念のメダル逸

 2020年3月29日、反町康治氏が日本サッカー協会(JFA)の技術委員長に就任したのは新型コロナウイルス禍の真っ只中。疫病が蔓延するなかで日本サッカーは多くの困難に直面した。就任後、パンデミックの影響で日本代表の活動は行うことができず、強化のための試合は組めなかった。そのなかで2022年のカタールW杯アジア最終予選がスタート。日本は初戦のオマーンに敗れ、第3戦のサウジアラビアにも敗戦を喫してしまう。3試合を終えて日本は1勝2敗の勝ち点3。ライバルとなるオーストラリア、サウジアラビアは3連勝で勝ち点9。上位2チームがW杯への出場権を得る戦いのなかで、日本は絶体絶命のピンチに追い込まれた。その時、反町氏は何を考えていたのだろうか。(取材・文=森雅史/全2回の2回目)

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――在任期間中に印象に残った出来事トップ3のうち、3つ目は何になりますか?

「自国開催だった東京五輪ですね。予選がないので、本大会に向けた強化はすごく考えなければなりませんでした。ですから、『1チーム2カテゴリー』という言葉を全面に出して、1つのチームがSAMURAI BLUE(日本代表)と五輪チームに分かれているということにしました」

――東京五輪は開催が1年遅れたことで難しい部分も出てきました。

「そのためSAMURAI BLUEと五輪代表の活動が重なる時期がより出てしまい、SAMURAI BLUEの横内昭展コーチ(現ジュビロ磐田監督)に五輪代表の監督代行として活動してもらうことで同時進行させました。この策は上手くいったんじゃないかと思ったんですが、最終的にはメダルまで届かなかったので、そこは本当に残念でした。

 田嶋幸三前JFA会長もおっしゃっていたのですが、もし満員の観客の中でプレーできていれば(注:東京五輪は新型コロナウイルスの影響で無観客試合となった)、メダルには届いたのではないかという思いを拭い切れません。もしあそこでメダルに手が届いていれば、またいろんな風景が変わったのではないかと思います」

「代表監督をやってみたいという考えや欲を持っていませんでした」

――ところで、2022年のカタールW杯アジア最終予選では、ホームのサウジアラビア戦でもし負けていれば、日本のW杯出場は叶わなかったかもしれません。試合の結果次第では森保一監督の解任と、反町技術委員長がチームを引き継いで残りの試合を戦うことになったのではないかと思います。その覚悟はいかがだったのですか?

「いや、自分で自分を指名するのはないと思います。だからそこは田嶋幸三前会長がどう決断するか、ということだったと思います」

――チームはすごくピリピリしていました。

「もちろんピリピリしていましたよ。あの試合だけじゃなくてすべての試合がそうでした。メディア側がそういう目で見ていたから、そう感じられたんじゃないでしょうか」

――でも、あそこまで追い込まれたことはなかったですよね。試合前に「もしかしたら自分が」という気持ちはなかったのですか。

「そういう仮定の話は頭になかったですよ。サポートするので本当に精一杯なので、そこまで頭が回ってないです。今冷静に考えると、『なるほど、本当は考えなきゃいけない』と言えるのですが、そのときはチームに入って一緒に活動していたので、考えられませんでした」

――一般的に考えると、もしあの時点で監督を引き継げるとしたらコーチか技術委員長になりますよね。そして反町委員長は北京五輪という国際舞台での経験がありました。

「普通に考えたらそうでしょうね。でも、本来で言えばコーチがやるべきだと思います。横内昭展コーチは国際大会の経験は少ないにしても、SAMURAI BLUEや五輪代表の監督代行を務めていましたから、全体の責任は技術委員長が取るにしてもチームの責任はコーチが引き継いだほうが良かったと思います。

 そもそも私は代表監督をやってみたいという考えや欲を持っていませんでしたから。何度も言いますが、技術委員長がそういうことを考えていたらダメなのです。技術委員長として監督には100%以上の信頼を置いてやっていましたし、何かあった場合には守らなければならないという立場でした」

心に残る故イビチャ・オシムさんの「サッカーの神様はちゃんと見ている」

――森保監督には2022年のカタールW杯までずっと度を超えるような非難が浴びせられていました。それも守らなければならなかったのですね。

「本当のことを言うと、メディアの情報をほとんど見ていないから分からなかったですね。現場に来ている人が監督や選手のコメントを拾いながら声を大にして言うのだったら、それはそれで仕方がないと思っていました」

――3月末で技術委員長を辞めたので別の仕事をなさると思いますが、過去、アルビレックス新潟、U-23日本代表、湘南ベルマーレ、松本山雅を率いたことがありますから、どこかでまた監督をしたいという気持ちをお持ちではないですか?

「4年間技術委員長を務めて指導の現場を離れました。このブランクをどう考えるかですね。ただ4年間でいろんなカテゴリーを見たり、いろいろな角度からサッカーに携わって知見は広がりました。それをどのように生かすかは今後考えていかなければなりませんね。言えるとしたら日本のサッカーの発展、成長に少しでも寄与できればと思っています。

 ここまで人一倍努力してきたという自負はあります。『一生懸命やってきた人間のことをサッカーの神様はちゃんと見ている』と、故イビチャ・オシムさんはおっしゃっていました。その言葉がずっと心に残っていますから」

[プロフィール]
反町康治(そりまち・やすはる)/1964年3月8日生まれ、埼玉県出身。全日空に入社し、横浜フリューゲルス誕生後も社員選手としてプレーし続け、1994年にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)へ移籍した際にプロ契約を締結した。1997年に現役を引退すると、サッカー解説者を経て指導者の道へ。2001年〜05年はアルビレックス新潟監督、06年〜08年は北京五輪世代のU-23日本代表監督、09年〜2011年は湘南監督、12年〜19年は松本山雅FC監督を歴任した。20年3月に日本サッカー協会(JFA)の技術委員長に就任。今年3月26日に退任するまで、日本サッカー界を陰で力強く支えた。

(森雅史 / Masafumi Mori)



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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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